EAZY-E 論考/過小評価されがちな功労者、イージーE

December 08,2016 | Category :  Article | Tag :  Dr. Dre, Eazy-E, Ice Cube, N.W.A.,

Eazy-Top2

ドクター・ドレー、アイス・キューブらと共にギャングスタ潮流を起こしたイージーE

悲劇の死から20年。イージーEは、ラップ界のラシュモア山に刻まれるべき存在である

1986年、ロサンゼルスではギャングスタ・ラップ(当時は“リアリティ・ラップ”と言われていた)というジャンルが息づきはじめていた。フィラデルフィアのラッパー、スクーリーDの「P.S.K. What Does It Mean?」に影響を受けたアイスTの「6 ’n the Mornin’」が、ロサンゼルスにおけるそのサウンドの走りとなったが、当時まだギャングスタ・ラップのレーベルはなく、もちろんジャンルとして確立されていなかった。

イージーEがこのサウンドの先駆者になるとは、誰もが予想していないことであった。「ヤツがラップしてたなんて、知らなかった」と、その後N.W.Aとして共に活動することになるMCレンは振り返る。「誰も知らなかったよ」

MCレンは、イージーEことエリック・ライトの実家からほんの2ブロック先で育った幼馴染であった。小柄で物静かなイージーは、コカインの売人として近所で名が広まったが、次第に自身の生き方に疑問を抱くようになり、稼いだカネをつぎ込んでラップ・ビジネスに参入することに決心した。彼の1stシングル、「Boyz-n-the-Hood」(1987)は巷で話題になり、Ruthless Recordsを創業する足掛かりとなった。

「自分のレーベルでレコードを出してるヤツは、俺が知ってるのはあいつぐらいだった」とレンは言う。「オフィスとかはなかったけど、とにかく自分でレコードを出してるってだけですげぇと思った」

のちにイージーEの広報になるフィリス・ポラックは、「あの人には先見の明があった」と話す。「彼が思い描いたことは、その後本当に実現したわ」。N.W.Aの成功はアイス・キューブやドクター・ドレーのソロ活動の成功につながり、ドレーはエミネム、50セント、ザ・ゲームらをブレイクさせ、ケンドリック・ラマーの成功にも関与した。また、Death RowやBad Boyといったレーベルは、Ruthlessを追随する形で誕生したと言え、そういう意味では2パックやビギーさえもイージーの恩恵を受けたと言える。

ところが、没後20年経った(註:2015年執筆当時)今、イージーEはそういったアーティストほど崇められていないのが事実だ。N.W.Aの映画が公開したにも関わらず、彼のことをヒップホップ史を変えた巨匠というよりは、脇役としてしか認識していない人は少なくない。ヒップホップ版のラシュモア山(註:米国の歴代大統領の顔が刻まれた山)があるとしたら、2パックとビギーの顔が刻まれていることは明白だが、ジェイZ、ナズ、アンドレ3000やエミネムといったアーティストたちが残りの座を争っている中、イージーEの名は候補にも挙がらない。

しかし、彼の名前は挙がるべきだ。それだけでなく、イージーEこそラシュモア山に永遠にその顔が刻まれるべき存在なのだ。

ギャングスタ・ラップの先見者 イージーE

誤解のないように言っておくが、イージーEは素晴らしいラッパーと呼ぶには程遠かった。あまりにもフロウが下手すぎて、「Boyz-n-the-Hood」のレコーディングがなかなか終わらなかったのは有名な話だ。「あんなにテイクを録るやつは見たことがなかったぜ」とレンは言う。しかもイージーは自分のバースをほぼ書かなかった。大抵の場合、アイス・キューブやレン、D.O.C.、ドクター・ドレーらが作詞を担当した。

しかし、ときに面白おかしく、ときに恐ろしくも聞こえるイージーのかん高い声質は異彩を放ち、曲のなかで際立った。そしてなにより、結果的にヒップホップ全体を巻き込み、今もなおカルチャーの原動力となっているギャングスタ精神の構想を描いたのは、まぎれもなく彼だったのだ。

イージーEはN.W.Aを結成するにあたって、ドクター・ドレーとアイス・キューブという類い稀な才能を厳選した。ふたりはそれぞれ、プロダクションとリリックの才覚が高く評価されることとなったが、彼らのインスピレーションの源泉は、何と言ってもイージーの波乱万丈な人生に他ならなかった。

「世の中は嘘だらけだから、リアルなものは掃き溜めの鶴みたいに目立つんだよ」 ―イージーE

「N.W.Aがラップしていたことの75%は、コンプトンで日常的に起きていたことだし、親父が日々目の当たりにしていたことだった」と、イージーEの長男であり、自身もラッパー活動をしているリル・イージーEが言う。N.W.Aのマネージャー、ジェリー・ヘラーの回顧録『Ruthless: A Memoir』では、ドレーがこう言っている。「俺たちはイージーの人生っていうコンセントにプラグを挿していただけだ」

イージーは、クラックと、ギャング・バイオレンスが氾濫し、ロス市警本部長ダリル・ゲイツが貧しい市民を苦しめていた、80年代後半のロサンゼルスのストリートのリアルを表現しようとしていた。1989年のLos Angeles Times紙のインタビューにて、イージーはこう語っている。「俺らは、コンプトンみたいな街に住むとはどういうことなのか、その現実を伝えているんだ。レポーターみたいに、真実をね。世の中は嘘だらけだから、リアルなものは掃き溜めの鶴みたいに目立つんだよ」

世間を脅かしたヒップホップ・グループ、N.W.A

当時、多くのメディアはN.W.Aを批判的に見ていた。1992年には、『Straight Outta Compton』が「許しがたい反警察的ソングで知られる」アルバムであると、Times紙にて紹介された。もちろん、問題の曲は「Fuck tha Police」であった。この曲は近年のBlack Lives Matter運動よりもはるか前、ミズーリ州はファーガソンでマイケル・ブラウンが白人警察官に射殺されるよりも前、黒人のタクシードライバー、ロドニー・キングがロス市警から暴行を受けるよりも以前に発表された曲であり、今やラップ史上最高のプロテスト・ソングとして人々の胸に刻まれている。

N.W.Aは、パブリック・エネミーのような社会派ではなかったが、イージーのやり方は別の形で革新的であった。彼は、アーティストたちの発言に制限をかけず、自由に表現させていたのだ。

「今時のヒップホップは何を言っても許されるし、好きなように表現できる」と、MCレンは言う。「昔は、レコード会社がいちいち口を出していた。普通のレコード会社だったら、俺たちの音楽をリリースしようとなんて思わなかっただろうね」

Ruthlessのグループ、アバヴ・ザ・ロウのビッグ・ハッチも、「Ruthlessでは何の制限も受けずにハードコアな音楽をやれたよ。80年代後半、90年代前半の他のレーベルではありえないことだった」と証言している。

「アメリカ中の人々が…ロサンゼルスのライフスタイルに憧れを持ってると思うぜ」 ―アイス・キューブ

ギャングスタ・ラップのイメージ、サウンドやフィーリングの構想は、イージーの頭の中で完成していたかのようであった。アイス・キューブが「Boyz-n-the-Hood」を作詞することになった際、イージーは曲の中で表現してもらいたいストリート精神を、キューブにこと細かく説明した。この曲はもともとニューヨークのラップ・グループ、H.B.O.のために書いたものであったが、リリックに使われている西海岸のスラングが理解できなかったため却下されたのだという。

その後、N.W.Aのマネージャーを務めることになるジェリー・ヘラーに初めて会ったとき、イージーは自身が思い描いているグループのビジョンを語った。その場にいたN.W.Aのプロモーター、ダグ・ヤングはこう覚えている。「何をラップするにしてもニューヨーカーを意識してしまう、とイージーは言っていた。だからこのグループのコンセプトは、ロスでの喋り方、ロスでの立ち居振る舞いでリアルなヒップホップ、リアルなストリートを表現する、ロスのカルチャーを広めるんだ、と言っていたね」

『Straight Outta Compton』(1988)や『The Chronic』(1992)、『Doggystyle』(1993)といったアルバムのおかげで、ロスのカルチャーはギャングスタ・ラップ・カルチャーと同義となり、ギャングスタ・ラップはヒップホップ・カルチャー全体の象徴となった。「ストリートで起こっているリアル、という話をよくするけど、ここがまさにそういう考え方が始まった場所なんだ」と、アイス・キューブは言う。「ここが発祥の地だから、当然、特種なオーラというか、パワーがあるんだ。そしてアメリカ中の人々が、例えば『The Sopranos(邦題:ザ・ソプラノズ 哀愁のマフィア)』に憧れを持つように、ロサンゼルスのライフスタイルに憧れを持ってると思うぜ。もっと詳しく知りたいと思うけど、近寄りたくはない、みてぇな」

イージーEが音楽史において果たしたこと

ア・トライブ・コールド・クエストやデ・ラ・ソウルなどポジティブな部分を強調するグループもあったが、今でもヒップホップは他のどのジャンルよりも、白人主流社会の外にいるアーティストたちが、泥臭い都会の物語をありのままに伝えることができるジャンルであり続けている。それは、N.W.Aなしではあり得なかったことだ。

イージーはソロ名義でもいくつか名盤を残している。『Eazy-Duz-It』(1988)は、『Straight Outta Compton』をよりユーモラスにしたようなアルバムであり、『It’s On (Dr. Dre) 187um Killa』(1993)はドクター・ドレーによるディス曲「Fuck wit Dre Day (and Everybody’s Celebratin’)」に対する、怒り(とやはりユーモア)が込められた返答であった。アイス・キューブとドクター・ドレーに見限られた後に発表した『It’s On (Dr. Dre) 187um Killa』を聴けば、イージーがただふたりの才能の恩恵を受けていただけではないことがわかる。

彼の影響は今なお計り知れない。ほぼ全ての若いアーティストは自身のことをラッパーのみならず、起業家であり“ムーブメント”の先導者だと考えている。何十人ものアーティストを世に輩出したイージーはまさにその元祖といえよう。

1995年3月26日にエイズで逝去するまで、イージーはそのブレない構想を持ち続けていた。社会に虐げられたゲットーの人々によって作られた、ゲットーの人々のための音楽を、世に届けること。その音楽が幅広い層に親しまれ、今でも多くの人々がその音楽に夢中になっているという事実が、いかにその音楽が単純にイケてるのかを物語っている。

Words by Ben Westhoff

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