●フォンス・マイゼル(マイゼル・ブラザーズ)死去~ジャクソン5の初期のヒットなどをてがける

【Alofonso “Fonce” Mizell Dies At 68】

訃報。

モータウンでジャクソン・ファイヴのデビューからの初期のヒット曲(「アイ・ウォント・ユー・バック」「ABC」など)を手がけ、その後、ドナルド・バードの元でブラック・バーズ、ボビー・ハンフリーなどブルーノートジャズ系などで作詞・作曲・アレンジ・プロデュースなどをてがけたマイゼル・ブラザーズのうち兄のアルフォンソ・フォンス・マイゼルが、2011年7月5日、ロスアンジェルスで死去した。68歳だった。彼らの作品は、ヒップホップ系アーティストたちによって多数サンプリングされ、90年代以降も人気を集めている。(正確な死亡日時が5日とわかりましたので、5日で確定します。=7月13日午前3時現在修正)

訃報記事としてはまだ不完全だが、LAタイムスのレベッカ・ハイスコートがブログでフォンス訃報を2011年7月11日付けで書いている。
http://blogs.laweekly.com/westcoastsound/2011/07/rip_alphonso_fonce_mizell.php

評伝。

アルフォンソ・フォンス・マイゼルは、1943年1月15日ニュージャージー州生まれ。弟にラリー(1944年2月17日ニュージャージー生まれ)、ロドニー(1957年8月16日生まれ=ドラマー、ベース奏者として活動)がおり、ラリーとともにマイゼル・ブラザーズを名乗る。十代の頃はトランペットを与えられ、学校のマーチングバンドなどで演奏したり、高校のクラスメートのフレディー・ペレン(1943年5月15日~2004年12月16日、61歳で死去)とドゥーワップ・グループ、ナイコンズ(Nikons)を結成。何曲かデモテープは作るもののリリースにはいたっていない。地元のハイスクールからワシントンDCのブラック大学の名門ハワード大学へ進む。ここで、1961年終わりごろ彼ら3人にジョン・バトラーを加え、ジャズ・グループ、ヴァンローズ(Vanlords)を結成。このグループは学校のタレントコンテストなどで入賞したり、一時期、ダニー・ハサウェイもプレイしたことがあるという。フォンスは自身トランペットを吹いていたこともあり、ハワードで教授のドナルド・バードと知己を得る。ハワード時代に彼らはインディ・レーベル、ホグ(Hog)を設立、唯一のシングル「Baby, I Want You」をプロデュース。これは当時モーガン・ステートの大学生を集め、モーメンツと名前をつけ、レコーディングしたもの。後にスタングから出るグループとは違う。いずれにせよヒットはしていない。

マイゼル兄弟とフレディー・ペレンとともに60年代後期にニュージャージーから西海岸ロスアンジェルスに本拠を移動。フレディーの友人ジル・グリフィスを通じてディーク・リチャーズと知り合い、彼らがモータウンのベリー・ゴーディーに認められソングライターとしてモータウン傘下ジョベッタ・ミュージックと契約。ここで、ベリー・ゴーディーは各人は匿名のチームで曲を書き、プロデュースするシステムを作り、そのチームに「ザ・コーポレーション」とを名付けた。彼らはジャクソン・ファイヴのデビュー作「アイ・ウォント・ユー・バック」「ABC」「ザ・ラヴ・ユー・セイヴ」などをプロデュース。これらがいきなり大ヒットしたため、彼らはモータウン内の売れっ子ソングライター、プロデューサーとなった。しかし、このときは、「ザ・コーポレーション」というクレジットでしか名前が出なかったために、だれがこのメンバーなのかはわからなかった。

その後、70年代中期までに、フレディーもマイゼル兄弟もモータウンから離れ、独立。1972年、旧知のドナルド・バードがブルーノートでレコーディングすることになり、同年のアルバム『エチオピアン・ナイツ』に参加。1973年、『ブラック・バード』に参加。このあたりから、自身のプロダクション・チームとして「スカイ・ハイ・プロダクション」を名乗るようになった。ここでボビー・ハンフリーの「ハーレム・リヴァー・ドライヴ」、さらにドナルド・バードの「チェンジス」などの大ヒットが誕生。

その後、LTDの「ラヴ・バラード」がヒット、70年代中期からは3男ロドニーもチームに合流し、LTDの『ラヴ・トゥ・ザ・ワールド』などに参加するようになっている。

1978年には、自ら見出した女性二人組みア・テイスト・オブ・ハニーをプロデュース。「ブギー・ウギー・ウギー」がポップ、ソウル部門でナンバーワンを記録した。テイスト・オブ・ハニーたちとはハワード時代にすでに知り合っていたという。このあたりからR&B界でのヒットも出始める。メリー・ウェルズ(「ジゴロ」)などをてがけるようになる。

90年代以降、Jディラ、ア・トライブ・コールド・クエスト、マッドリブなどヒップホップ系、クラブ系アーティストたちが彼らのてがけた作品をサンプリングするようになり、若い世代にもアピールすることになった。

一時期、実質的に音楽業界から引退していたが、2007年、ラリー・マイゼルが4ヒーローのアルバムの中で「プレイ・ウィズ・ザ・チェンジス」に参加、ヴォーカルをきかせている。

マイゼル・ブラザーズとしては、「ファンク・ジャズ」「ソウル・R&B」系作品を出したアーティスト、プロデューサーという捉えられ方が一般的だ。

彼らのいとこのひとり、ドン・マイゼルは70年代後期にエレクトラ・レコードでA&Rディレクターとなり、シカゴのテリー・キャリアなどをてがけた。その後2005年にレイ・チャールズの遺作『ジニアス・ラヴズ・カンパニー』の共同プロデューサーの一人としてグラミーも得ている。また、別のいとこシンディー・マイゼルは、ニューヨークのトップ・セッション・ヴォーカリストとして有名。最近ではホイットニー・ヒューストンの来日にバックコーラスとして帯同していた。また、ランDMCのジャム・マスター・ジェイことジェイソン・マイゼルも遠い親戚とのこと。ラリーの息子、ラリー・マイゼル・ジュニアは、ラップグループ、キャンサー・ライジングのメンバー。

なお、Mizellの発音だが、「マイゼル」が正しく、日本で流通している「ミゼル」は明らかな間違い。レコード会社などが「ミゼル」で統一してしまったために、間違いがそのまま流通してしまった。これを機に訂正し、マイゼルで統一してもいいだろう。Loleatta をロレッタとしてしまったのと同じくらい大きな間違いだ。Michael(マイケル)を「ミケル」と書くようなものだ。

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マイゼル・ブラザーズのミュージック・アカデミー

レクチャー。

マイゼル・ブラザーズ3人が勢ぞろいして自らの歴史を1時間40分ほどにわたって写真などを見せて話すプログラム。一番右がロッド(末弟)、右から2番目がフォンス、右から3番目、一番しゃべっているのがラリー。MCも含めて5人並ぶときは、一番真ん中がラリー。これは、2006年10月23日、オーストラリアのメルボルンで行われたものの録画。レッド・ブルがスポンサーになってやっているイヴェント。このレクチャーが実におもしろい。他のアーティストも興味深い。一度、レオン・ウエアをこのソウルサーチンでもご紹介した。(ちなみに、この映像で見ていても、マイゼルと発音されています)

http://www.redbullmusicacademy.com/video-archive/lectures/mizell_brothers__sky_high_brothers/

その英文テキスト。

http://www.redbullmusicacademy.com/video-archive/transcript/mizell_brothers__sky_high_brothers/transcript

Marvin Gaye & The Mizell Brothers – Where Are We Going

上記の話の中でも出てくるマイゼル・ブラザーズがてがけたマーヴィン・ゲイの未発表音源。この曲自体は2001年に出た『レッツ・ゲット・イット・オン』のデラックス・エディションに収録された。

http://youtu.be/AWClNjU-aj0

LTDの「ラヴ・バラード」をそれまでほとんどのリードを兄のビリー・オズボーンが取っていたところ、弟のジェフリー・オズボーンが歌うことになったところの話などおもしろい。

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OBITUARY>Mizell, Alfonso “Fonce” (January 15, 1943 – July 5, 2011, 68 year-old)