Plastic Peopleの終焉

Posted by     Kay Suzuki | February 17,2015

過去40年以上に及ぶクラブミュージックの歴史を紐解いていくとまるで神話のように必ず出てくる伝説のクラブやDJ達。LoftにおけるDavid Mancuso、Paradise GarageにおけるLarry Levan、Music BoxにおけるRon Hardy、WarehouseにおけるFrankie Knuckles、ヨーロッパに目を向けるとAmnesiaのAlfredo、The ShoomのDanny Rampling、Gilles PetersonとPatrick ForgeによるDingwalls。時代背景と照らし合わせながらその文化の誕生と成長を読み聞きする中で、そこに居る事が出来なかったボク達の世代はその神話に登場する神々の奏でていた音を聞きながら妄想するしか無い。

それでもボクが生きた2000年代のロンドンの街にはボク達にとって語り次がれなくてはならない大切な場所があった。

それが今年の頭に閉店したPlastic People。

plastic

実は前々から店舗を売りに出しているという話は聞いていて、昨年11月には約10年続いたTheo Parrishのレギュラーも終了し、その時も覚悟を決めて朝まで踊り明かしたものの、実際のクローズの日はしばらく未定のままだった。
 

theo@plastic

【最後の夜にTheoが作ってその夜数人のみに配られたTシャツ】
 

それがNYEのパーティ明けで体が衰退してる1月2日の金曜にロンドンの仲間内で「一般オープンは今夜が最後。明日はFriends&Familyのみ」というニュースがSNSを通じて一気に広まった。ついにこの日が来たか、と決心してその身内が集まる土曜日に出かける準備をしながら妻にplastic peopleがどんな箱で自分にとってどんな存在だったのかを説明し始めた途端、過去10年の色々な思い出と重なって、一気に感情の波が押し寄せてきて胸が詰まってしまった。。。
 

 

キャパ200人程度のPlastic Peopleはまだこのエリアが今のようなジェントリフィケイションの進んだ街になる以前の2000年、ロンドン中心地のOxford Streetから移転して来た(オリジナルの店は1993年にスタートしている)。オーナーAdeの妥協しない音響へのこだわりと、そのリアルに研ぎ澄まされた音楽哲学に裏付けられたブッキングはロンドンに限らず世界中のクラブ関係者においてもに知る人ぞ知る箱として、2000年代のロンドンにおける数々のアンダーグラウンド・ダンスミュージックを生み、育ててきた。

 

入り口から地下に続く階段を降りて行くと徐々に響いてくる低音。少しぶっきらぼうで薄暗い内装のバーを進んでいくと広がるダンスフロアは、ダンサーと音響に優しい木製フロア。低い天井と一切の照明を排したその漆黒の空間は、その場の音に全ての神経を集中させられ、念密なるアコースティック処理が施されたその音場はヘッドホンで全身を包み込まれたかのような一体感で体全体を揺すられるのだ。

 

ボクが初めてここに足を運んだのは渡英直後の2004年1月。今は亡きSOHOの名物レコード店Vinyl Junkiesで見つけたフライヤーを手にDJのラインナップ以外は何の予備知識も無く単身飛び込んだ。

 

coop2

 

その夜開催されていたのは、その数年後に僕のデビュー1枚目のレコードを出してくれる事になるレーベル/パーティの『CO-OP』。当時、世界中を圧巻していた西ロンドンサウンド発祥の地として絶大的な影響力を与えていた彼等。真っ暗なフロアから溢れ出る真っ黒なビートの中で激しく踊り揺れるクラウドの過半数は黒人達。レゲエサウンドシステム譲りのMCがワイルドにフロアを盛り上げ、自家製サイレン・ボックスのビープ音がフロア中に響き渡る。その斬新でリアルな音と戯れるかのように踊るジャズダンサー達はバーでもそのステップを競い合っている。
その空間全体が鼓動するかのようなVibrationを全身に受けたその瞬間、自分の中で何かが起った。16歳の時にSly & The Family Stoneの中古LPを買って初めて聞いた時に走ったあの電流がまた背筋の奥を直撃したのだ。日本での音楽活動を続けて行く中でどうしても自分の居場所が見えずに、すがるような想いで来たロンドンでようやく自分の目の前に光が降りてきた瞬間だった。毎月第2と最終日曜に開催されいていたこのイベント、僕にとってはまさに日曜礼拝のようで、毎回インスピレーションを受けに足繁く通う内に自然と彼等のコミュニティに溶け込んで行った。

 

この時から10年間、plastic peopleはボクにとっては常に大切なホームとして、遠く離れた世界で産まれ育っても、不思議な周波数帯で共鳴するヴァイブで繋がった大切な仲間達と沢山出会えたのだ。

 

『CDR」は毎月木曜日に開催され、ビートメイカー、プロデューサー、ミュージシャン達が集い、オープン・マイクならぬ、オープン・CDJセッションという形で、各々が自身の作品をその夜に提出。このイベントでは既に世にリリースされた曲は一切かけないポリシーで、ホスト/DJを務めるTony Nwachukwu氏がブースに持ち込まれたデモをかけつつモニターにアーティストと作品名を表示させていく形で進行して行く。ここでも初めて行った時からそこに持ち込まれる楽曲のクオリティの高さとそれぞれのアーティストの自由度の高さに度肝を抜かれ、僕はここでも常連として、毎月、自分に宿題を課すかのように新しい曲を創っては、自分の音がplastic peopleのシステムではどう聞こえるのか、テストを繰り返す事で研究していたのだ。ここでは現在飛ぶ鳥を落とす勢いのFloating Pointsや、Mr Beatnick、Maya Jane Cale等、数え切れないくらいの沢山の才能溢れるミュージシャン/シンガー/プロデューサー達と初めて出会い、音や知識を交換し、常にコラボレーションする事でお互いにアーティストとして切磋琢磨していった。ここで出会ったDaisuke Tanabe君から教えて貰ったビートの切り方を応用して創った楽曲が前述のCO-OPから2007年に発売する事にもなり、その2年後にはCDRのコンピレーションにボクの他の楽曲が収録される事になる。

 

CDR2

 

そしてDJというアートフォームを肌で教えてくれたのが過去8年間、毎月デトロイトから渡英しここでレジデントを務めたTheo Parrish。毎回オープンからクローズまで一人で汗だくになりながらプレイする彼からは、数え切れない程のレコードやスキル以外にも、始めてDJというアートを通して時間と空間を操る術を学んだ。毎月のレギュラー化になる前、彼が半年に一度の割合でPlasticでプレイし始めた時から通い詰め、ここでもボクはそんな一晩のフロアのVibeを目一杯吸収、数年後には前述のCDRで出会ったシンガー、Fatimaとの楽曲含めいくつかの楽曲をTheoが世界中でプレイしてくれている報告を受けるようになる。

 

Theo

 

ボクのレーベル、round in motionも元々はPlastic Peopleで始めたパーティの名前から来ている。当時Gilles Petersonのパーソナル・アシスタントを務めていた同じく在ロンドン日本人のクニと共に日本人DJがロンドンに来る時の受け皿として不定期に開催。元U.F.O.の松浦俊夫さんやMitsu The Beatsさんを招いて平日ながらも大盛況のパーティだった。

 

roundinmotion

 

その他にもダブステップの誕生に大きく貢献し、その文化の発祥の地の一つとなった『FWD』、後のNTSラジオを主宰するFemi Adeyemiを中心とした地元東ロンドナー達が集まる『Nonsense』 、ロンドンにテクノを紹介してきたSteve Bicknell主宰の『Lost』等、ここで行われるイベントにはどれも音のディテールに強いこだわりを持った一筋縄では行かないパーティばかりだった。

 

そしてその全てのイベントのブッキングを行い、自らの幅広い音楽性と音響に対する信念でボク達を教育し続けてきたのがPlastic Peopleのオーナー、Ade Fakile。数百本のマイクを使い箱自体の鳴り方を調べあげた上でその部屋のチューニングを施し、アーティストがレコードに吹き込んだ音をいかに忠実に再現出来るかに重点を置いたという彼の哲学はDavid Mancusoにも通じる率直なオーディオマニアっぷり。更に彼が主宰するイベント『balance』では通常のTechnicsのターンテーブルでは無く、業務放送用にBBC等で使われた独社EMTのターンテーブルを2台マウント。一台だけでも業務用たこ焼き器並みのサイズにUFOキャッチャーのボタン並みのサイズの再生ボタンのこのマシン(ちなみに運ぶのに3人かかるらしい)から流れる音は、自分が持っているレコードを聴いても今まで聴こえて来なかったディテールや音像がくっきりを浮かび上がり、まったく違ったリアルな音になるのだ。そして値段も付けられない高価なレアジャズからナイジェリア、ハイライフの秘蔵発掘音源、更にR&Bからテクノまで、縦横無尽のテンポやジャンルに関わらず、その各曲のグルーヴと音場体験を全身に浴びる事で一つ一つのレコードの持つパワーを完全に理解出来るのだ。それまでのビート・ミックスを中心としたDJを聞き慣れていた当時のボクには衝撃の選曲と音のプレゼンテーションの仕方に完全にノックアウトされた。

 

 

それでも実は個人的にはここ2年位は以前程頻繁に足を運ぶ事が少なくなった。10年前にカッティングエッジだった同エリアはより観光地化が進み、ちょうどオリンピックが開催された頃から地域行政や警察のクラブに対する圧力で一時閉鎖の危機にもさらされた。その後、復活を遂げ、看板からサウンドシステムもよりアップグレードしたにも関わらず、より厳しくなったドアポリシーや、クラウドの質の変化、プロモーターの世代交代、オーナーAdeが海外にビジネスを始め、常に不在状態だった事も含めて徐々にそのエネルギーが違う質に変わってきたのだ。勿論一昨年末からはBrilliant Cornersもオープンし、自分自身多忙が続いていたせいもあるのだが、ボクと同じ世代の他のPlastic People Children達もBoiler RoomやNTSラジオ、Beauty & The Beatを始めとした数々のプラットフォームにその精神を引き継いで行く事になった。

 

plastic_sign

 

そんなPlastic Peopleの最終日。この日はFloating Pointsが最近オーダーメイドした特注DJミキサーもインストールし、音は過去最高。この日は長年Plasticのセキュリティを務めていたWinstonも数年前に他の店に異動したものの、この夜だけは特別にまたこの日のドアを守ってくれた。開店前から長蛇の列が出来き、入場出来たのはほんの一握り。Plasticを昔から支えてきたDJ達に加え、Adeの謙虚なスピーチも交えて数々のPlastic People Classicsが連発。運良く入れた地元の常連やDJ達で最後のダンスを涙を浮かべながら共有した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

数年前、誰かがPlasticの出口でぼそっと呟いて今でも覚えてるのが「この店は本当に誰かの趣味だな」。否、ボクにとってここはいつまでもインスピレーションを与えてくれた教会であり、数えきれない音モダチを作ってくれた学校だったのだ。

 

ありがとう、Ade。ありがとう、Plastic People。

 

Bless
K

 

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