MAJOR FORCE 25th Anniversary Interview

November 05,2013 | Category :  Interview News | Tag :  DJ Milo, MAJOR FORCE, Wild Bunch,

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MAJOR FORCE 設立25周年インタビュー

11月9日土曜日、代官山AIRで開催される『Sound City feat. DJ Milo meets MAJOR FORCE 25th Anniversary』。日本のクラブシーン草創期から活動してきたレーベルMAJOR FORCEの高木完 & K.U.D.Oが、MAJOR FORCE 25周年のアニバーサリー・プロジェクトとして、盟友であるDJ Miloをメインアクトにフィーチャー。近年、ハウスミュージックに傾倒してきたMiloだが、この日は貴重なWild Bunch Classicsセットを披露してくれる。来日前のDJ Miloと、MAJOR FORCEのK.U.D.O氏、高木完氏に緊急インタビューを敢行した。

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DJ Milo

―― あなたとMAJOR FROCEとの出会いを教えて頂けますか?

DJ Milo (以下M): K.U.D.Oは僕の音楽プロデューサーとしてのキャリアにおいて重要な存在だよ。初めて機材を買うときにアドバイスをくれて、今でも機材は基本的に同じセットアップで使っている。芸術的なサンプリング方法や、どうやってドラムの音を良くするかも色々と教えてくれた。Toshi(中西俊夫)は音楽活動をしてきた僕ら世代の中で最も情熱的な人間だ。とにかく彼の知識は信じられないほど凄くて、僕らの世代は本当に彼のことを尊敬している。

Kan(高木完)はとてもユニークな人柄で何度も僕を笑わせてくれた。素晴らしいユーモアのセンスの持ち主だよ。Hiroshi(藤原ヒロシ)はMAJOR FORCEプロジェクトのレコーディングで、僕らが理解できなかったようなサンプル音源をよく使っていたから、音楽的にとてもリスペクトしている。理解出来なかったサンプルのパートをプレイすると、どこの国のクラブの客も大喜びだったんだ。だからHiroshiはグローバルな視点で、人々が音楽的に何を求めているか深く理解している人物だよ。

―― 今回はDJ MUROがスペシャル・ゲストで参加します。

M: MUROとは80年代後半に初めて会ったんだけど、たしかその時はB Freshと一緒だったと思う。クラブの外で彼らから挨拶してきて、MUROが真のBボーイであることが分かった。当時、僕が出会った日本人の中で一番ヒップホップ・カルチャーについて真剣に考えていた。彼のことは大好きだよ。成功を見れてとても幸せだし、彼がたまにニューヨークのハーレムの僕の家の近所の公園で行われるパーティでプレイする時には遊びに行ったりする。

―― 11月9日(土)の6時以降のアフター・アワーズにDJ NORIも登場します。

M: NORIはトニー・ハンフリーズ、ラリー・レヴァン、初期のケニー・カーペンターと並んで僕の大好きなハウスDJの1人だ。彼のスタイルはとてもスムーズであり、さり気ない。そして音楽は常に素晴らしいセレクションなんだ。

―― 初来日時のエピソードを教えてください。

M: 初めて来日したのは、東京のファッション・ウィークでロンドンのバッファロー・クルーの一員としてだった。その頃は日本について何も知らなかったので、まったく何も期待していなかった。唯一の興味は、最高のウォークマンを手に入れることだけだった。でも2日間いただけで衝撃を受けた。それまでは、いつもヒップ・ホップはニューヨークが1番で、イギリスが2番、他はまったくない、と思っていた。でも東京滞在わずか2日で日本はヒップ・ホップ・カルチャーの面ではイギリスのはるか先に行ってるということを知ったんだ。飛行機を降りて最初に聞いたことは「レコード屋はどこにある?」ということだった。六本木に泊まっていたので、小さく狭かったウィナーズ(輸入レコード店)に行った。そこでレコードを漁ってるうちに衝撃で身が凍ったよ。あの頃、ロンドンで出回っていた伝説的なアフリカ・イスラムのショー・テープに入っていたマイクロノウツの「Smurph Across the Surf」のレコードを見つけたんだからね。

―― 当時の東京のシーンについて教えてください。

M: 出会った日本の音楽シーンで活躍する人々はとても素晴らしく、彼らと一緒に仕事をすることはとても光栄だ。僕はイギリスで1980年代初期にワイルド・バンチとレコーディングを始めた。「Fuking Me Up」というエレクトロ・レコードだ。これはただの僕たちのクルー用のダブ・レコードだった。でも当時、あれを作るのはものすごく難しかったんだ。日本に行ってHiroshiやK.U.D.Oなどと一緒に仕事をするようになると、何でもできる、何でも可能だと思えるようになった。頭の中にあるアイデアが完璧にスタジオで出来るという感じだよ。それまでのスタジオでの経験はとても限られたものだったから、完全に違ったアプローチだった。

―― ザ・ワイルド・バンチの拠点と言われた野外のパーティ、セント・ポールのカーニヴァルのことについて教えてください。

M: もし、ブリストルの人々にワイルド・バンチのベストだったところはどこかと尋ねれば、彼らはきっと「セント・ポールのカーニヴァル」と答えるだろう。そこでは本当にいろんなジャンルの人をミックスさせることができたんだ。あの頃、自分が育ったブラック・エリア(黒人が多い居住区)でやっていた。そこでは警察がまったく力がなかったので、僕たちはみんな安全だった。午前11時から翌日の朝5〜6時まで音楽をかけていたよ。サウンドはものすごく大きかったから、朝の3時に8マイル先を歩いている連中にも聴こえたらしい。我々のチームではサウンド・システムを抱えたことはないんだが、僕らと一緒に仕事をしてくれたヒッピーの男がいて、彼がものすごいサウンド・システムを持っていた。警察はあらゆるPA会社に、僕たちに機材を貸さないよう言っていて、貸したらシステムを没収すると言っていた。でも、彼はずっと僕たちと一緒にやってくれたんだ。

―― 伝説の12インチ、「The Look of Love」について教えてください。

M: 「The Look of Love」は、さまざまなジャンルの音楽をブレンドして、ひとつの曲にしようと思って生まれた作品だよ。たとえば、僕はデニス・エドワーズの「Don’t Look Any Further」とL.L.クールJの「I Need a Beat」、あるいはシックの「Funny Bone」や「Sucker DJ’s」の曲などをミックスする。ラフでしかし、スムーズなアプローチで混ぜ合わせていたが、ジョン・ギブスのレゲエ12インチのアプローチの影響を受けて「The Look of Love」のアイデアが出来た。ずっとディオンヌ・ワーウィックの歌が好きで、クラブの環境でかけられるヴァージョンが欲しかったんだ。そこで、アイランド・レコードの12インチ用のボーナス・トラックとして作った。

The Wild Bunch – The Look Of Love

―― ソウル・II・ソウルとはどういった関係だったのでしょうか?

M: 関係はとてもいい。僕たちがソウル・II・ソウルに初めて会ったのはノース・ロンドンのジャム・セッションだった。両方のアーティストの名前が出ていたコンサート・パーティーだよ。会場はとても荒々しく危ないエリアで、僕たちが一番恐れたのが、レコードが盗まれるということだった。だけど僕たちはソウル・II・ソウルとジャム・セッションを繰り広げ、そのパーティー以来友達になった。その頃、まだブリストルを本拠にしていて、すぐにアイランドとの契約が欲しくて、僕とネリー(・フーパー)はロンドンのカムデンに引っ越した。ソウル・II・ソウルの本拠はカムデンにあって、あの頃も今も彼らとはよくハングアウトしているよ。ネリーは、まだワイルド・バンチとも仕事をするけど、最終的にはジャジー・Bと一緒に仕事をすることが多くなった。結局自然な流れなんだろうね。その時点で僕は多くの時間を日本で過ごした。そういう意味では、彼らとの関係はお互いフェイド・アウトしたんだろう。

―― いまでも頻繁にメンバーと連絡を取り合うのでしょうか?

M: 過去20年でネリーにはニューヨークで2度会った。トリッキーは、今年の初めに会った。正直に言うと、彼はわが道を行き成功した後、唯一僕のことを気にかけてくれている人物なんだ。たぶん、彼が8歳の頃、僕が彼の従姉妹とデートしていたことがあるからだと思う。あの頃、彼に自分が気に入っていたレコードを聴かせ、彼はそれをスポンジのように吸収していた。彼のファースト・アルバムで僕の歌詞も使っている。グランドマスター・カズがシュガーヒル・ギャングの「Rapper’s Delight」に歌詞を提供したような感じがするよ。ダディー・GはときどきEメールでやりとりしている。

―― ここ数十年間はNYを拠点に活動されているのでしょうか?

M: 主に家族の仕事をNYでしていた。だけど、1992年に「Ruff Disco」シリーズの一環でアンダーグラウンド・ハウスを作ったり、ジギー(Zhigge)というヒップ・ホップ・グループとアルバムを作り、そこにはサラーム・レミも入っている。また、ハーレム・ハイ・クルーとともにアンダーグラウンド・ヒップ・ホップも出している。そういう意味ではNYでいろいろやっていた、という感じだよ。現在は、1989年にイギリスを出てから初めて自分の時間を100パーセント音楽のために使っている。

―― DJミロ、マイロ、マイルスの発音についてどう思いますか?

M: ハハハ、別に大して重要じゃない。ただ僕の母が付けてくれた出生証明書の名前は、Mil’o(発音はミーロウ)なんだ。驚くべきことに、日本の人たちはみんな僕の名前を正しく発音する。他のどこの国の人よりもね。イギリスでは、僕のことを「マイルス」と呼ぶ。その名前で知られているからだ。長い話になるけど、僕の母が名付けたミロという名を叔父が嫌いでね。彼はジャズの大ファンでマイルス・デイヴィスが大好きだった。そこで、小さかった頃から彼は僕をマイルスと呼ぶようになった。彼のおかげで若い頃からいい学校に行けた。ほとんどみんな、子供の頃の友達は僕のことをマイルスとしてしか知らない。法的な理由で、音楽もののクレジットなどでは、出生証明書の名前を使わなければならない。

高木完

―― 活動25周年ということで、おめでとうございます。今後、MAJOR FORCEとしての活動は本格化するんでしょうか?

高木完 (以下T): 厳密には活動25周年ではなく、25年前の秋に発足した、ということ。MAJOR FORCEに関してはなかなか一言では説明しにくいところがあるけど、終止符を打ったわけではないので何らかの形で続いていく予定。

―― 20周年ではバンドとして復活して多くの人が驚きました。ドラムが屋敷豪太氏、K.U.D.O氏がベース担当、高木完氏と中西俊夫氏がボーカル/ギターでフロントをつとめました。

T: あの時はそれが面白かったんだ。今は又違ったやり方になるかもしれないけど、あれは機会があれば、またやりたいと思っているよ。

―― MAJOR FORCEの誕生秘話を教えて頂けますか?

T: 早い話がメロンとタイニーパンクスの合体。で、最初はMEGA FORCEって名前だったけど、ハードロックのレーベルでその名前があることを知って、トシちゃんと相談してMAJOR FORCEに変えた。ロゴはトシちゃんが手書きで書いたものをもとにタイニーパンクスのロゴ等を作ってもらっていたデザイナーの関根くんに作ってもらったんじゃなかったかな。

―― 完さんはラッパーとしても第一線で活躍されていましたが、当時、来日の機会が少なかったアメリカのHIPHOPアーティスト達を、日本に紹介するスポークスマンのような役割を担っていました。パブリック・エネミーなどとの交流は今でも続いているのでしょうか?

T: 今も続いているよ…。昨日もチャックとはメールでやりとりしたし。

―― タイニー・パンクスとしてワイルド・バンチとツアーしたと聞いております。また東京でもDJ Miloと一緒にレギュラーパーティーを開催していたそうですが、場所はどこでどんなパーティーだったんでしょうか?

T: 名古屋かどこかで買ってきたばかりのランDMCの「Peter Piper」をかけたらボブ・ジェームスを使ってて、彼らが笑いながらもガッカリしてたのを覚えてる。あのネタは彼らの定番だったんだ。Miloとは88年ぐらいかな?モイチさん(クラブキングの桑原茂一氏)が関わってた飯倉のBANKで一緒に毎週やってた。

―― ソニーミュージック在籍時の3枚のオリジナル・アルバムを高品質CDで復刻されます。

T: アルバムを買っていただくと中にセルフライナーノーツが入っています。是非、一読をオススメします。

高木完のアルバム3Tを高品質CDで復刻
『Fruit of the Rhythm』『Grass Roots』『HEAVY DUTY Vol.1』
11月6日リリース

K.U.D.O

―― 25周年記念おめでとうございます。DJ MiloはWild Bunch Classicsというロングセットで来る予定です。MAJOR FORCE DJ SETはどんな音楽がベースプレイされるのでしょうか?

K.U.D.O (以下K): MiloのWild Bunch Classicsセットは興味深いですね。前回一緒に岡山、大阪でプレイしたときもヒップホップ、ファンク、レアグルーヴ中心のセレクトで、Milo独特のファンクネスというかグルーブ感がとても懐かしくもあり楽しめたので今回も期待してます。MAJOR FORCE DJ SETは基本的にはジャンル・レスで、ヒップホップ、クラブ・クラッシックスを中心に、ロック、ニューウェーヴ、パンク、レアグルーヴ、レゲエなど過去から現在に至る音楽をバックトゥバック、時には2人同時にミックスするというスタイルです。お互い打ち合わせはしないので、現場での偶然性を楽しんでる感じです。自分たちも興奮するような瞬間が生まれたりで、自分自身も完ちゃんとプレイするのはとても楽しみにしています。

―― K.U.D.Oさんはワイルド・バンチといつ頃に出会っている感じですか?当時のメンバーの様子やロンドンでの出来事など教えてください。

K: ワイルド・バンチとは85年頃、メロンのプロモーションのためロンドンに行っている時に、トシちゃん経由でロンドンのDJチームとして紹介されたのが最初かな。今と違って当時はDJというものがそんなにポピュラーではなかった時代なので、DJ同士、音楽の指向性も共通していたので、自然に仲良くなっていったという感じです。

翌年かな?、アルバム『Deep Cut』のレコーディングで再び渡英したときには、マイルスたちもファースト・シングル「The Look of Love」をレコーディングしていて、ラフミックスのアセテート盤を聴かせてもらった。「フェアライトを使ってるんだぜ」ってネリーが自慢してたのを覚えてる。ネリーとマイルスはカムデンの小さなフラットで共同生活していて、僕らはよくそこに遊びに行ってはレコード聴いたり擦ったり。SOHOのレコ屋でネタものや新譜を買って、Brasscrieでお茶しながらダベッたりと、とにかく四六時中音楽とレコードの話ばかりしてたな。週末の夜はとりあえずWAG CLUBに集まって、その後おもしろそうなパーティーがあればそこへ流れるというパターンだったけど、その手の情報はほとんどネリーがもってきて、マイルスはあまりパーティーには参加せずに、中華街でシンガポールフライドヌードルに豆板醤ぶっかけて「Wicked!!」って言って帰って行った。

そんなマイルスが、毎週入り浸ってのがコヴェントガーデンのアフリカセンターで始まったソウル・ll・ソウルのパーティー。
アフリカ民芸品屋の奥のガランとした、ほとんどターンテーブルの小さなライトのみの真っ暗な倉庫で、ジャジーBがJB’sやリップル、サイマンデ、ドン・ブラックマンやスクーリーDなんかを爆音でかけてた。後のレアグルーヴ・ムーヴメントの始まりだった。僕もかなり影響を受けて、次の日の日曜日は、足を棒にしてレコードを探しまくった。やっとの思いで手に入れたメイシオ・パーカーやジャクソン・シスターズのホワイトプレス12インチを、東京でこれかけて!って完ちゃんに渡した思い出もある。

アフリカセンターに通っているうちにネリーやマイルスを通じてジャジーBとも顔見知りになり、ブリストルで行われるソウル・ll・ソウルとワイルド・バンチのニューイヤーパーティに同行することになった。そのパーティーも楽しかったけど、思い出深いのは夜中にブリストルへ向かう道中の「Soul ll Soul Night Bus」。ジャジーBのミックステープが流れる煙った深夜のバスの中は、マジカル・ファンキー・ミステリーツアーな感じ。ジャジーBはメロンのアストリア・シアターのライヴにも仲間を連れて来てくれた。日本人がヒップホップやファンクベースの音楽やってるのに驚いてる様子だったよ。

―― ワイルド・バンチの「The LooK of Love」は傑作です。プロデューサーの立場でK.U.D.O氏として、マッシヴ・アタックとはどこが違うのか教えて貰えますか?

K: 「The Look of Love」のラフミックスを聴かせてもらった時は、正直、悔しさと羨ましさをを感じて、やられた!って思った。そのころの音楽の形態はアメリカから発生したヒップホップ、ハウスの手法をどう自分なりに料理するか模索中な時代。特にロンドンと東京のアーティストはその手法に執着せず、間口を広めていた。メロンでは天才、中西俊夫のアイデアで、エキゾチックミュージックやハワイアンの要素を取入れてたんだけど「The LooK of Love」には正にロンドン、ブリストルのサウンドが確立されていた。ヒップホップを消化した自分たちの音になってたんだ。それは後のソウル・ll・ソウルやマッシヴ・アタックにも引き継がれていると思うし、今現在の音楽にも確実に大きな影響を与えているよね。

とにかくこの時代は、発展途上の音楽=ヒップホップやハウスを中心に、様々な音楽や文化が派生した時代。そこに居合わせる事ができたのは僕の人生の中でも最も重要で刺激的な時期だったように思う。この頃、ロンドン滞在中にいろんなアーティストのライヴを見たんだけど、特に衝撃的だったのがハマースミス・オデオンでのランDMC。広いステージの真ん中にターンテーブル2台とマイク2本のみで、超満員のオーディエンスが熱狂している。今までのバンドスタイルの演奏形態をすべて覆してしまった。今では珍しくはないけど、初めて観たこのステージにはホント驚いたよ。

そして帰国後、早速影響を受けたメロンは「Wheels of Steel Tour」と題してターンテーブルとMCだけのツアーを始めた。この時の長崎でのライヴでは、タイニー・パンクスと来日中のマイルスも一緒だったんじゃないかな?馬刺食べたり、海で溺れかけたマイルスを助けた覚えがあるんだけど。あと、サウナの中でジョギングするマイルスもこのツアーだったかな?ワイルド・バンチはDJやファッションショーなんかでちょくちょく来日してたんで、どの時期の出来事か定かでないや。

―― 1992年、ロンドンに移住し活動の場を移したK.U.D.O氏と中西俊夫氏は、当時HONEST JON’S RECORDSというレコードショップで働いていたジェームス・ラヴェルと出会いました。彼にとってMAJOR FORCEは憧れのレーベルで、すぐにMO’ WAX内にMAJOR FORCE WESTを設立。K.U.D.O氏と中西俊夫氏との黄金コンビでの数々の名作をリリースを手がけてきました。各作品に関してコメント頂けるでしょうか?

GROUP OF GODS

K: これは渡英以前の作品。東京でプリプロ、バリ島でフィールドレコーディング、オーヴァーダブをして東京でミックスをした、僕自身今でもよく聴く1枚。ナチュラル・カラミテーの森君、クニ君、田村玄さん、ミュート・ビートの松永君など今では超豪華なメンツで演奏したものに、バリのマジックが降り掛かった奇跡の音楽。プロデュースはトシちゃんと僕。バリのレコーディングはバンガローのプールと、毎日夕方6時の停電で中断するスタジオ作業の合間に食べたサテぐらいしか覚えてないな。

LOVE T.K.O

K: 92年からのイギリス永住の当初の目的はこのアルバムの制作だった。『Love TKO』のアルバムはゼロから、曲作りからロンドンにどっぷり浸かってやろうという計画で、永住を決心して渡英した。最初は完ちゃんの『Grass Roots』のミックスダウンやメロンのセルフリミックスなどの作業をしつつ、自分たちのスタジオ環境を整え、ジャンクな楽器やレコードを買い集めてベーシックトラックを作っていった。そこに、どこからかトシちゃんが連れて来た女の子に歌わせて、何曲かアルバムの候補曲が出来上がっていった。そんな時にハウイーBと出会い、レコーディングエンジニアとしてTKOのアルバム制作に関わることになってから本格的なレコーディングが始まった。ここまではかなり時間をかけた。1~2年は費やしたんじゃないかな。初期のMAJOR FORCEと違って、生演奏主体のTKOを異国の地でレコーディングするには、ミュージシャンとの交流や人脈が必要だったからね。その辺りは独特のセンスとキャラクターの持ち主、中西俊夫氏に皆自然と引き寄せられて来た感じだね。

このアルバムで特に思い入れがあるのがMo’ Waxでも12”シングルを切った「Tongue in Your Ear」。レコーディングしてる場面を今でもはっきり覚えてる。僕がKorgのステージエコーを通したRHODESをオーヴァーダブしてると、トシちゃんがエコーのスピードノブを回しだした。その瞬間、曲がサイケデリックなトリップ感に一変したんだ。僕はどちらかというと、ディテールに拘って音を詰めていくタイプ。対して、トシちゃんにはこうした一瞬にして音の方向性を決定づけるアイデアを出す才能がある。トシちゃんマジック!土屋さんのギターやマコト君のドラム、その繊細なプレイを一瞬たりとも逃さずテープに収めたハウイーの腕前も素晴らしい。ギターに合わせてテーマを吹いているリリコン奏者は、メロン時代から御馴染みのジョン・ウォルターズ。ソロの途中に「Faraway」の一節が出てくるのは僕らにしか分からないかな。

MAJOR FORCE WEST

K: TKOアルバム制作終了後、ジェームスがもっと僕らと密接にコラボしたいという強い要望でMo’ Waxのオフィス内にスタジオを移した。MAJOR FORCE WEST設立というか、単に日本で制作した物と区別を付けるためにWESTをつけたんだよ。このスタジオで録り溜めた音源を後に編集して『MAJOR FORCE WEST ’93~’97』としてリリースした。

Mo’ Waxも初期の活発な時期で、ハウイーBも一時期スタジオを構えていたし、毎日いろんなアーティストが出入りしていたな。ジェームスから頼まれるMo’ Wax関係の作業も増えて来て、U.N.K.L.Eのメンバーに誘われたのもこの時期。EMSオーケストラやマッシヴ・アタックのリミックス、ハウイーとのコラボ、初期U.N.K.L.Eのシングル、スカイラブ(Skylab)等、数えきれないほどのプロダクションを熟していた超多忙な時期。お蔵入りも多数。

Water Melon

K: この頃Mo’ Waxは、元々マッドネスが所有してたというスタジオ付きのビルに移転して、僕らもそのスタジオの隣の部屋に機材を運んだ。スタジオは地下だし、天井は低いし、暗いし寒いしで、あまりいい印象じゃなかったけど、ここで相変わらず作業を進めていた。アンドリューはシャーデーのキーボーディストで、メロンのころから交流があって、トシちゃんのAlfa時代のWater Melonの大ファンだったから必然的に始まったプロジェクト。ファーストの「Out of Body Experience」以降、僕は日本に戻ってしまったので参加していない。このアルバムのハイライトは「Moon Shaker」。この曲のようなサンプリング・コラージュ感は今でも好き。

Skylab

K: ハウイーと彼が連れて来た変人、マットを交えた4人で始めたユニット。始めに着手したのが「Sea Shell」。MAJOR FORCE StudioでプリプロしてMilo Studioでオーヴァーダブ。ここでもトシちゃんマジックが光った。ちょうどロンドンに遊びに来ていた尚之(藤井フミヤの弟)にサックスを入れてもらう事になったんだけど、別の作業で散々待たせたあげく、いざサックスを入れる段階になったら、「テープひっくり返して!」って。いきなり逆回転のトラックで吹く事になったが、その突飛な要望に柔軟に答える尚ちゃんのプレイもすばらしく、テープ戻してプレイバック聴いた時には鳥肌が立った。マットはこのプロダクションがえらく気に入ったらしく、以降Skylabは延々と続く。

U.N.K.L.E

K: 初期のU.N.K.L.E作品や同名義でのリミックスは僕とジェームス、ティムの3人によるもの。初期U.N.K.L.Eでの僕のフェイバリット曲は「Soup or Salad」。これはティムの作品で、L.A.でのセッションの時にマニー・マークがチープなモノシンセをオーヴァーダブしたんだけど、お蔵入りになった。こんないい曲もったいないから「MAJOR FORCE WEST ’93~’97」に入れて救出した。今聴いても素晴らしい。

余談だが、ある日ゴータがうちに遊びに来て、「“Berry Meditation” 聴いたよ。コレいいね」って言って、置いてあったそのレコードをかけた。33回転のレコードを45回転で…なるほど。

―― 最後に、今後の未来のMAJOR FORCEはどうなって行くのでしょうか?

K: それは僕にも分からない。今まで通り自分たちがいいって思うものを作って、面白いって思ったアーティストを排出していくつもり。始めは僕と完ちゃんとで企画を進めていくけど、タイミングを見て他のメンバーにも参加してもらう予定だよ。
Major Force be with you!

Interview by Yasushi Takayama (RUSH! PRODUCTION)

EVENT INFORMATION

Sound City feat. DJ Milo meets MAJOR FORCE 25th Anniversary

  • 11/9 (SAT)
  • 代官山AIR
  • 10PM〜
  • ¥3500[1D] Admission
  • ¥3000[1D] W/Flyer
  • ¥3000[1D] AIR members
  • After 6AM ¥1000
Lineup
  • DJ Milo Exclusive Wild Bunch Classics Set
  • MAJOR FORCE DJ SET (高木完 & K.U.D.O)
  • MURO, DJ NORI and more

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