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The Jack Lonshein Storyby David L. Brown

真のレコード・コレクターは、CDジャケットは薄っぺらいデジ・パックの質感、匂い、オーラの点で、古くて重みのあるレコード・ジャケットに劣ると言う。その素晴らしいジャケットを描くアーティストがいなくなるくらいなら、LPの12×12スリーヴがなくなることの方がましであろう。例えば、クラウン・レーベルの気色の悪いカヴァー・アートを描いたファジオという男はすでに歴史の中に埋もれてしまっている。しかしながら、メイン・ストリーム・レーベルのために素晴らしいカヴァー・アートを描いた、ジャック・ロンシェンというアーティストは少しずつだが正当な評価を受け始めている。
1926年にブルックリンで生まれ、子供の頃は1匹狼だったジャックは趣味として、有名な漫画家であるオットー・メスマー(Felix the Cat)やルドルフ・ダークス(Katzenjammer Kids)などの作品を真似して絵を描いていた。彼はブルックリン工業でアートを学び、18才の時に看板描きとして軍隊に入る。除隊した後は、競馬に明けくれたり、レコード屋のオーナーとして働いていたりして時を過ごす。レコード屋の仕事はジャックが無職だということを知って、馬券屋の人がくれたのである。 1951年には、ジャック・ロンシェンはレコード・ランデヴーというレコード屋を自分で切り盛りし、買付、販売、交渉などすべてを行っていた。50年代中期には7インチ盤の流行で、アストリアにレコード・ルーム、クイーンズのジャマイカにはレコード・ランチをオープンさせる。そして結構な大きさになったレコード・ストアのオーナーとして、ジャックはイン・ストア・ライヴのゲストとして、マイルス・デイヴィス、ジミー・スミス、ベティ・カーターなどのミュージシャンを呼ぶほどになった。また彼は店の壁に掛けるジャズ・ミュージシャンのパステル画を描くのが好きだった。残念なことに、その素晴らしい絵画たちは1958年の火事で焼けてしまったが、店はザ・シーンとして18か月後に新しく生まれ変わることになった。
しかし61年にはジャックは音楽業界に嫌気が差していた。チェーン店の出店に、劣悪な労働環境も相まって、その頃にはもう利益さえも出ないこのビジネスから手を引くことを決めた。ザ・シーンを売り払ったすぐ後にジャックは、素晴らしいパステル画のことを記憶していたメイン・ストリーム・レコードのフィル・ピコーンに声をかけられる。ジャックの躍動的なスタイルが、今の使い古されたようなカヴァー・アートに対抗できると分かっていたフィルは、ジャックにメイン・ストリーム・レコードのカヴァー・アート・デザイン部門の仕事を持ちだす。そしてオーナーのボブ・シャッドに話を持って行き、結局メイン・ストリーム・レコードの傘下、リ・イシュー中心のコモドア・レコードのカヴァー・デザインを担当することになる。その数は8枚で、主にビリー・ホリデイ、コールマン・ホーキンズ、ピーウィー・ラッセルなどの作品を担当した。
メイン・ストリーム・レコードのカヴァー・アートはグローブ・アルバム株式会社が作っていた。この会社はニューヨークにあり、つやのある、重量感たっぷりの段ボールを使った光沢紙のジャケットを専門としていたが、その技法はコストがかかるため今ではほとんどやっているところはない。グローブのオーナーのレオ・マーゴリスはジャックに、レコードのバイヤーにジャケットを売るために、レプリカを描いてくれ、と頼まれた。カヴァー・アートが傷ついたりした時のためにレプリカを欲しがる人は多かったので、このプロジェクトは大成功となった。ジャケットはトレンディ、サイケデリック、ボヘミアン気どりのものから、時には、とても貴重なガレージ・ロックのようなものまであった。
一方メイン・ストリーム・レコードのボブ・シャッドは、ジャズの人気が衰えてきているのに気づき、新しくできたFMラジオのチャンネルで注目を集めていた、アンダー・グラウンドのロック・シーンに目をつけ始めていた。1968年前半のメイン・ストリームはビッグ・ブラザーズ・アンド・ザ・ホールディング・カンパニー、スーパーファイン・ダンデ・ライオン、ジェリー・ビーン・バンディッツ、アンボイ・デュークス、ティファニー・シェイド、ボヘミアン・ヴェンデタ、タンジェリン・ズー、グローイング・コンサーン、アート・オブ・リヴィング、エリー・ポップ、オリエント・エクスプレスなどのアルバムをリリースしていた。よく売れたものもあったが、すぐにセール箱行きの作品もあった。また、シャッドのFMラジオからサポートを受けれないものもあった。
ジャックは、メイン・ストリーム・レコードで働いている間にボビー・コールというしゃがれ声のジャズ・ピアニストと出会った。彼はボブ・シャッドにコールのオリジナル・アルバムを出させるように頼むが、シャッドは興味を示さなかった。この出来事に憤慨したジャックは自身のレーベル、コンセントリック・レコードを1966年に設立し、自らCEOと制作ディレクターを務める。1967年にコンセントリック・レコードからボビー・コールのアルバム『Point of View』をリリースした時は、彼の積極的な営業のおかげでニューヨーク近辺ではよく売れた。ジャックはデート・レコードからライセンスを取り、よりよいディストリビューション環境を整えるとさらに調子に乗っていく。不運にもそのシングルはジェリー・ジェフ・ウォーカーのオリジナルと同じ発売日なったが、どちらのヴァージョンも1968年の夏に徐々にチャートを昇り始めた。すると、ヒット曲のチャンスを逃したボブ・シャッドは、なぜうちからリリースしなかったのかとジャックを非難した。この事件が引き金となり、ジャックはメイン・ストリームを後にして、フリーランスの仕事を始める。写真家と一緒にやっていたデザイン・スタジオがうまくいっていない中で、ジャックは深夜のレコード屋のバイトを引受け、毎朝早起きしてはボビー・コールの楽曲を作っていた。そしてそのデモを、当時MGMで働いていた旧友のフィル・ピコーンのところへ持って行く。レーベルは興味を示したものの、アルコール依存症のコールに対する契約は厳しかった。結局、ジャックが今でも保管している山のようなデモ・テープ以外で形になったものは何もなかった。
この期間全体を通して、ジャックはムーヴィートーン、ABC、ルーレット、ロイヤル・ルースト、チコでアルバム・カヴァーを描き、最も有名なものとしてはルーレットからリリースされた『The Best of Tommy James and the Shondells』がある。また、彼はムーヴィートーンでメリー・ウェルズのカヴァー・アートと、21センチュリー・フォックスで『Love Songs to the Beatles』のカヴァー・アートをやっている。彼のアート・ワークはメイン・ストリームのサントラをたくさん飾り、タイムのアルバム、フィラデルフィアの重鎮ドック・バグビーのオルガン・グルーヴのアルバムでも見ることができる。また日の目を見ることのなかったコロンビアでのジョニー・ウィンターの素晴らしい肖像画なども手掛けている。
現在、ジャックは退職しマンハッタンに在住していて、フリーランスでアート、また他に変わった仕事もしている。







