シックのナイル・ロジャースとバーナード・エドワーズ、そして女性ヴォーカル達のストーリー

October 01,2019 | Category :  Article | Tag :  シック, ナイル・ロジャース, バーナード・エドワーズ,

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1979年のシック。左から、バーナード・エドワーズ、アルファ・アンダーソン、ルーシー・マーティン、ナイル・ロジャース、トニー・トンプソン Photo by Bill King.

シックと女性ヴォーカルの存在

シックとしての活動を通じて、ナイル・ロジャースとパートナーのバーナード・エドワーズは、ミステリアスで洗練されたダンス・ミュージックを創造したが、その音楽をつなぎとめていたのは、かつてはノーマ・ジーン・ライト、ルーシー・マーティン、アルファ・アンダーソン、ロビン・クラーク、ディーヴァ・グレイ、ミシェル・コブスらが務め、現在はフォラミ・アンコアンダ・トンプソンとキンバーリー・デイヴィスが担っている女性ヴォーカルの存在であった。

1992年の『Chic-ism』以来のニューアルバムとなる新作、『It’s About Time』をナイル・ロジャースは近日リリースすることを発表したが、なめらかなディスコ・サウンドと、ファンキーなフューチャリズムをキープした作風が期待できるだろう。ナイル・ロジャースのギタリスト、ソングライター、アレンジャー、プロデューサーとしての手腕、そしてシックのみならずデヴィッド・ボウイから、マドンナ、デュラン・デュラン、ダイアナ・ロス、ブライアン・フェリー、ディスクロージャー、アヴィーチー、ダフト・パンクまで、様々なアーティストの作品で見せてきたロジャース節が前面に出た作品になりそうだ。

 シックに関わってきた人全員が、彼こそがシックであり、彼(と親しい友人であったベーシスト/共同作曲家の故バーナード・エドワーズ)が想い描いた、洗練されたダンサブル・ソウル・ミュージックの理想像こそが、シックのブランドであったと言う。

しかし、シックの真髄は女性メンバーにあったとも言えるアルファ・アンダーソン、ルーシー・マーティン、ノーマ・ジーン・ライト、ロビン・クラーク、ディーヴァ・グレイ、ミシェル・コブスらが(ルーサー・ヴァンドロスとフォンジー・ソーントンの協力もあって)実現させたユニゾン(ひとつの音)・ヴォーカルこそが、シックの軽快な曲に多幸感を注入していたのだ。

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ナイル・ロジャースとバーナード・エドワーズ Photo courtesy of Getty Images.

シックの歴代女性シンガーたちの品格

 合唱団のように、シンガー達は一斉に歌っていたが、同時に、それぞれの声がはっきりと聞き分けることができた。1992年のアルバムをリリースした段階では、すでにミシェル・コブス以外のシンガーはグループを抜けており、タワサ・エイジーが新しく加入していた。現在では、フォラミ・アンコアンダ・トンプソンとキンバーリー(キム)・デイヴィスがヴォーカリストを務めている。「歴代女性シンガーたちの品格、出で立ちや身のこなし、そして彼女達が体現していたものに恥じないシンガーでありたいと思っているわ」と、フォラミは言う。彼女とキム・デイヴィスはシックに2008年に加入した。

 しかし、ニューアルバムからの1stシングル「I’ll Be There」では、新しいシンガーだけでなく、アルファ・アンダーソンとルーシー・マーティンをスタジオに招いて録音し、更に、ロビン・クラークとノーマ・ジーン・ライトの歌声もテープ音源でだが聴くことができる。『It’s About Time』の楽曲は、1983年以前のラインナップのときに録音したテープの未完成楽曲を元に構築されているためだ。エドワーズと共に制作した、失われたと思われていたこういったセッション音源が、最近山ほど見つかったとロジャースは言っており、今後もこういった古いシック・メンバーと新生シックのコラボレーションが期待できると発表している。

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ノーマ・ジーン・ライト Photo courtesy of Getty Images.

 キム・デイヴィスは、シックのオリジナル・メンバーと共にスタジオ入りしたときの雰囲気を「愛で溢れていた」と形容する。ロジャースにとって懐かしいメンバーと再会することが出来た貴重な時間になった。「オリジネーターたちと同じ部屋で歌うなんて、凄く貴重な体験だったわ」とキムは言った。

 「良いことだったと思う」と、ルーシー・マーティンは同調する。すると、シックのニューシングルのサビを歌い出した。「I don’t want to live in the past, but it’s a nice place to visit(過去に生きるつもりはないけど、たまに振り返るのも悪くない)」。アルファ・アンダーソンとノーマ・ジーン・ライトの2人も同意した。ここ数年、彼女たち3人はまた頻繁に会話をするようになり、笑いと涙の絶えないディープなディスカッションをしてきたという。そして今では3人でネクスト・ステップというユニットを結成し、新曲を制作している。ちなみにネクスト・ステップは、シスター・スレッジのキャシー・スレッジと共に、イビサ拠点のプロダクション・デュオ、アリストフリークスの2014年のシングル、「Get On Up」にフィーチャーされていた。同曲は、シカゴのコミスキー・パークで行われたあの悪名高きディスコ公開処刑、“ディスコ・デモリッション”の35年後のタイミングに合わせてリリースされた曲であった。

 「彼女たちは、シックのシンガーとしてだけではなく、アーティストとしてしっかりと認識されるべきだわ」と、ロビン・クラークは言う。「それだけの才能があることはもう十分証明してきたと思う。彼女達は間違い無くシックだけど、それ以上でもある」。これまで40年の間、デヴィッド・ボウイからビヨンセ、テディー・ペンダーグラス、エスター・フィリップスまで様々なアーティストのバックシンガーを努めて来たクラーク本人も、2015年リリース予定のソロ・アルバムを制作中である。

 「フォラミとキムは楽しい子たちだわ」とルーシー・マーティンは言う。「以前のシックのときは、音楽ビジネスのプレッシャーのせいで、どんどん楽しいという感覚が薄れていってたけど、彼女達の加入でまたそういった楽しさが復活したと思う」。ライトも同意し、こう付け加えた。「フォラミとキムは最高だわ。でもネクスト・ステップはシックとは関係なく自分たちの音楽をやって、過去のシックも現在のシックとも別ものになる」

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ルーシー・マーティン Photo courtesy of Luci Martin.

シック伝説

 1977年に入った初代ヴォーカリスト、ノーマ・ジーン・ライトと、ライトと共にリードシンガーを務めることになったルーシー・マーティン、1978年から1983年までのシック・サウンドを牽引したアルファ・アンダーソン、そして彼女達のユニゾン・ヴォーカルのまとめ役ロビン・クラークの4人が、どのようにシックに関わるようになり、シックを脱退し、シック以降の道を歩んだかという物語は、シックを深く理解する上で、ロジャースのリーダーシップ力と同等に語られるべき重要な側面である。

 シック伝説の中でも、ノーマ・ジーン・ライトの関わり方は興味深い。それは、彼女が最初のヴォーカリストであったということだけではなく、1978年にエドワーズ/ロジャースがプロデュースを行った彼女のソロ・アルバム『Norma Jean』をリリースしたことで、結果的にライトがグループを抜けることになり、その後定番となる、アンダーソンとマーティンが主軸の編成が出来上がってしまったからだ。

 「教会のクワイアで歌を始めたから、私の歌い方ってスモーキーなのよね」と、ライトは言う。オハイオ出身の彼女はスピナーズとしばらく仕事をしたのち、70年代前半にマンハッタンにやって来た。ライトの声は元々アルトだが、シックの「Dance, Dance, Dance」といった曲では高めの発声をしており、それは「セクシーさを演出するため」であったと言う。しかし、それまでジミ・ヘンドリックスと仕事をしていたR&Bバンド・リーダー、カーティス・ナイトの新しいバンドのオーディションを受けるためにニューヨークに来たとき、彼女はハスキーな歌い方をしていた。「私のテープを聴いてくれたナイトが、彼のファンク・ロック・バンドに誘ってくれたから、マンハッタンに引っ越したの。そしてリハーサルでルーシーと知り合ったわ」 

 ロック好きだったルーシー・マーティンとノーマ・ジーン・ライトはすぐに親しくなり、そのうちナイトのバンドのことを忘れ、カナダとニューヨークの間を行き来しながら様々なバンドのバックシンガーを務めた。あるとき、ライトはルームメイトからシンガーを探しているバンドがあると聞いた。そのバンドとは、エドワーズとロジャースだった。しばらく違う名前でよりヘヴィーなサウンドを試したあと、シックとして方向性が定まってきた頃だった。「オーディションをしてみたらすぐに私の声を気に入ってくれて、参加することになったね」と、ライトは言う。最初に彼女が参加したのは、「Everybody Dance」であった。

 1977年の『Chic』をレコーディングすることになった際、ロジャースは古い友人のロビン・クラークとルーサー・ヴァンドロスもセッションに誘い、ルーサーはヴォーカル・アレンジャーとしての役割も果たした。ロジャースは厳しかったが熱心にヴォーカリストと向き合ったとクラークは言う。「シックとして一緒に活動するずっと前からナイルとは知り合いだったの」。ルーサー、フォンジー、ロビン、そして彼女の旦那であり、デヴィッド・ボウイの名ギタリストでもあるカルロス・アロマー(1975年の『Young Americans』にはクラークも参加している)の4人は、60年代後半から70年代前半、リッスン・マイ・ブラザーというバンドをやっており、『Sesame Street』でレギュラー出演していた。「カルロスのお願いでリッスン・マイ・ブラザーにロジャースが代理で参加したときがあったの。Sesame Streetのプロモツアーのときだわ」とクラークは思い出す。「カルロスはメイン・イングリーディエントのギグで参加できなくて、信頼できる人に代理をしてもらいたいと思って彼を誘ったの。私たちは“ひとりは皆のために、皆はひとりのために”の精神を大切にしていたバンドだった」。ロジャースはまた、アロマーのつながりでApollo Theaterのハウスバンドにも参加している。

 そして、ライトはルーシー・マーティンをもうひとりのヴォーカリストとしてバンドに引き入れ(マーティン曰く、「しぶしぶだけどね」)、ヴァンドロスはアルファ・アンダーソンという新しい友人を招いた。ジョージア生まれの南部美人なジャズ・シンガーであったアンダーソンは、サックスの巨匠キャノンボール・アダレイの姪のナット・アダレイ・ジュニアと、彼女の叔父の音楽を祝するイベントに出演して、ニューヨーク・デビューを飾った。「Lincoln Centerの公演でマンハッタン・デビューを果たしたの」とアンダーソンは言う。彼女はオーディションでヴァンドロスと知り合い、教育者としての仕事を保留し、音楽に時間を捧げた。「当時のニューヨークのセッション・シーンは小さくて、その仕事の少し後、ナットはルーサーのバンドに入って、シックが解散して私がルーサーのバンドに入ったときも、まだいたのよ」。ナット・アダレイは長いことルーサー・ヴァンドロスの音楽監督を務めた。

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アルファ・アンダーソン Photo courtesy of Alfa Anderson.

歌手としての道

 アンダーソンは自身のシックでの歌い方を、鋭く、クリアで、スムーズだったと説明するが(「いわゆるソウルフルな声、ではなかった」と彼女)、ルーシー・マーティンはクイーンズ出身の生粋のニューヨーカーであり、ミュージカル『Hair』のオーディションを受けた時に、望んでいなかった歌手としての道を偶然切り開いてしまった人だ。「元々はコーラス・ガールとかダンサー志望だったのよ。歌手なんて目指してなかった。プロデューサーに“Aquarius”を歌うよう言われて、歌ってみたら気に入られて、合格しちゃったの」

 声量のあるアルト・シンガーのマーティンを、その時すでにシックに加入していたライトは、ロジャースとエドワーズとシックのドラマー、トニー・トンプソンが来ていたパーティーに誘い、ほぼ騙す形でシックのオーディションを受けさせた。「同じクイーンズ出身だからトニーとは知り合いで、ずっと地元のことを話して盛り上がってたら、ナイルに“Dance, Dance, Dance”は聴いたか?と聞かれた。“いいえ”と答えたわ。ディスコは好きじゃなかったの」(しかしマーティンはのちに、シックはディスコ・バンドではなく、「ディスコ・バンドというにはあまりにアレンジが豊かで洗練されていた」と発言している)その後、マーティンはロジャースとエドワーズに、曲の「バ・バ・バ・バ」の部分の音がすこしズレているとダメ出しを始めた。「もしコード進行にそって歌うんだったら、その後の音が半音下がってないと変よ」。シックの男性メンバー3人は一旦部屋を出て、何やら相談したあと部屋に戻り、マーティンに合格だと伝えた。「何に?」と、マーティンは訊きかえした。

 そうやってルーシー・マーティンはシックのメンバーになった。そして彼女の加入があっという間に決まったのと同様に、アンダーソンの加入も素早かった。現行メンバー、フォラミとデイヴィスも、友人やバンド・メンバーに後押しされて受けたオーディションにあっという間に合格した。

 「ナイルもバーナードも、即座に判断をする人だった」と、クラークは言う。シックのリーダー2人は音楽において直感を大事にした。「十分な猶予をもって事前に連絡をしてくれたりとか、入念にリハーサルをするっていうことはほぼ無かったわね」とアンダーソンも言う。「レコーディングする直前に曲を渡されて、しかもそれを完璧にやらないといけなかった」。フォラミは今でもそれは変わっていないと言う。キム・デイヴィスは、しかし、ロジャースのことを「器が大きく、人のアイディアをちゃんと聞いてくれる」人であるとも評価している。

シック的ユニゾン歌唱法

 ヴァンドロスがアレンジメントを手伝い、シックの最初のラインナップの段階で極められたと言えるシック的ユニゾン歌唱法は、正確に、完璧に歌うことを必要とした。「あの歌い方の中で目立つなら、はっきりと他のメンバーと違う声質を持っている必要があった」とアンダーソンは言う。ロジャースとエドワーズは、ヴォーカリストたちの特長ではなく、自分たちの得意とする演奏を基に作曲をした。そしてヴォーカルは基本的にユニゾンである部分が多かったが、それはハーモニーよりも技術的に難しい歌い方である。「マイクを囲んで歌う人全員が全く同じ抑揚と発声で歌う必要があった」とアンダーソンが説明する。「しかもニュアンスが難しかったわ。パーカッシヴでありレガート(音と音の間を切らない)だったし」

 「ヴォーカルは美しく、ダイレクトで、アドリブなど飾りはなく、皆の声が合わさって誘惑するかのようだった」と、ライトは表現する。マーティンは、毎回のセッションにおいて、ロジャースがアンダーソン(ファースト・ソプラノ)、マーティン(アルト/セカンド・ソプラノ)、コブス(フルボトム・アルト)、クラーク(その中間)それぞれのパートを指導していたことを熱心に語った。「ナイルはまず曲の最後のヴァンプ(伴奏)を演奏する。それから、サビの部分。毎回完璧に歌えないと、やり直しだった。ナイルは録った声を、全ての声がちゃんと聞こえるようにブレンドしてプロデュースしたわ」

 するとライトはソロ・アルバムを制作するチャンスを得た。しかしこれは好運とも不運ともとれる出来事であった。彼女はシックが成功したことにとても喜び(「どのラジオを聞いても、人の家にいっても、車の中でも、どのクラブでもシックがかかっていた」と彼女は話す)、ロジャースとエドワーズが彼女のソロ作『Norma Jean』の作曲/プロデュースを行ってくれたことも光栄に思った。「彼らは、どんなアーティストでも素晴らしい作品をプロデュースすることができることを証明したかったのよ」とライトは言う。「私は、でもその後もシックで活動をするつもりだった」。ところが、ライトが契約したBearsvilleというレーベル(シックが契約していたWarner/Elektra/Atlantic系列のオフシュート)とマネージメント間に問題が起こり、彼女はそれ以降シック・オーガナイゼーションと活動することができなくなってしまった。ライトはそのことを今でも残念そうに語る。「私はシック・サウンドの原型よ。今でも思い出すと悲しくなるわ。人は、この世の全ての出来事に意味があると言う。確かに、それがあったからこそ私のソロキャリアもあるわけだけど、それでもやっぱり酷く失望したわ」

 友人のライトと一緒にいたいがためにシックに入っていたマーティンも、大いに残念に思った。「最初、私たちはあまりに忙しくて何が起きてるかよく解らなかった」とマーティンは言う。「私はノーマ・ジーンが勢いづいて調子に乗っているのかと思った。ナイルやバーナードに聞いても教えてくれなかった。彼らはそういうことをちゃんと話してくれない。彼らは今後のためにバンド編成を調整していたのよ」。その後に彼らは、「Le Freak」や「Good Times」といったナンバーワン・ヒットを含む『C’est Chic』と『Risqué』という2枚のアルバムを、ルーシー・マーティンとアルファ・アンダーソンの2人をリードシンガーとして立たせて制作した。

 「は?って感じだった」と、マーティンは笑う。彼女は、バックシンガーのときもアンダーソンとはそれほど親しくなく、リードシンガーになってもそれは変わらなかった。「いい人そうだとは思ったけど、とにかくその頃の私にとってはっきりしていたのは、親友がバンドから切られたってことと、そのことについてナイルやバーナードが何も言わないってこと。私はちゃんと覚えてもいない音楽をただただやっていた。でもグループは大人気だったけど」と笑った。「でも物凄く人気になったときも、彼女とはあまり親しくならなかったわ。でもあまりにも忙しかったから、それはさほど問題にならなかった。私は腑に落ちてなかったし、きっとアルファだって正直なところ、同じ気持ちだったと思う」

 アンダーソンはライトがいたときからツアーに参加していたものの、ライトのことを良く知らず、彼女がなぜ去ったのかも知らなかった。その頃(1978年前半)、ルーサー・ヴァンドロスは自身のキャリアを優先するためシックのツアーに参加しなくなっていた。「ルーサーは自分の音楽を追究するため去ったのよ」と、アンダーソンは笑った。「でも私だけ残って、ノーマの代わりにリードを歌うことをナイルとバーナードに提案してくれたのはルーサーだった」

 シック・オーガナイゼーションは、その後数年に渡って大人気を博したが、それは彼らの音楽の優れたメロディーやリズム・センスだけではなく、彼らのノワール的でお洒落なイメージも手伝ってのことであった。マーティンはそれが気に入らなかった。「私は自分なりのファッションをしたかった。彼らが良いと思うこと全てに同意したくなかったのよ」

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ロビン・クラーク Photo courtesy of Robin Clark.

ディスコの急激な衰退

 シックは70年代後半に大ヒットを連発したが、『Real People』、『Take It Off』、『Tongue in Chic』、『Believer』をリリースした1980年から1983年の期間は、ディスコの急激な衰退に苦しみ、シックの人気も低迷した。「あの時期にも素晴らしい曲があったから、あれは残念だったわ。それに、ルーシーと私は一緒に活動すればするほど、どんどん歌い方も冒険的になった」と、アンダーソンは振り返る。「ディスコが死んだと言われ、人が聞こうともしなかったシックの歌の中には、素敵な曲があった」

 その後、エドワーズとロジャースの間に亀裂が生まれ、2人が分裂したことでシックも解散したが、そのことにアンダーソンは悲しみ、(そしてすぐにヴァンドロスのバックシンガーになり)マーティンは怒った。「いえ、私の気持ちは複雑なんかじゃなかったわ。単純に、怒りしかなかった。その時私たちは、確か何かを制作していた頃だったんだけど、その日私はたまたま家にいた。突然連絡がきて、解雇よ。説明なんてなし。今後どうするかについて2人の間で意見の食い違いがあったのは解ってたけど、きっと解決するだろうと思ってた。でも結局、突然終わりを告げられた。だから、複雑な想いなんかなかったわね。思ってたのはただ、“ふざけるな!”だったわ」

 ライトやクラークと同じく、マーティンもシックの仕事がなくなると、バックシンガーとして働いた。ノーマ・ジーン・ライトはアレサ・フランクリン、マドンナ、Dトレイン、アーサー・ベイカー、メルヴィン・ヴァン・ピーブルス、そしてC+Cミュージック・ファクトリー等と仕事し、その他にもゴスペル・ヒットメイカーたちと作曲をしたり、歌を歌うなどした。シックが解散する前にすでに脱退していたロビン・クラークは、ヴァンドロス、テディー・ペンダーグラス、そしてジョージ・ベンソンといったアーティストと仕事をし、一時的にシンプル・マインズにも加入し、1985年には『Surrender』というソロ・アルバムもリリースした。ルーサー・ヴァンドロスとの仕事以外では、アルファ・アンダーソンはギャング・オブ・フォー、テディー・ペンダーグラス、ディオンヌ・ワーウィック、エディー・マーフィーらの楽曲に参加した。ルーシー・マーティンはB.B.キングとロビンSのレコーディングに参加したが、そのうち音楽業界に嫌気が差し、コンピューター・テクノロジー業界に転職し、それから医学記録転写士になり、その後、音楽と同じほど情熱が持てると彼女が語る、看護の仕事についた。アンダーソンも音楽をやめ、「運命を感じた」と本人が語る教育の現場に戻った。まずはニューヨークの学校の校長になり、それからニューヨークの教育省に行き、音楽をどのように教育に活かせるかということに取り組んだ。

 「だからといって音楽に関心がなくなったわけではないわよ」と、マーティンは言う。「いつだって肩にのった悪魔のささやきが聞こえたわ」。アンダーソンも言う。「子供達の面倒をみていて、音楽をまたやりたくなった」。彼女は初のソロ曲「Former Lady of Chic」を2013年にリリースしている。マーティンは今から20年前ほどから、ノーマ・ジーン・ライトとツアーなどをたまにやっていた。「私は日本でヒットを生んだゴスペル・グループと仕事をしていたの」とライトは言う。「ツアーにルーシーも連れていったわ」。そしてルーシーが続きを話す。「すると、私たちがシックにいたことを知っていたプロモーターに、日本で単発のライブをやらないかと言われたの。ちょうど自宅の屋根を直したいと思っていたところで、この数千ドルの仕事はありがたかったから、ええ、やりましょうと答えた。するとその次の週、イタリアからも同じオファー。いいじゃない、と答えた。いつの間にか、車に常に大きなバッグを入れておくようになって、金曜の夕方に看護士の仕事を終えて飛行機に飛び乗って、日曜の夜に帰ってきて、月曜からまた出勤、という生活になっていたわ」

 数年前、アンダーソンが2人に連絡をし、彼女の夫でありベーシストのティンカー・バーフィールドの曲(「My Lover’s Arm」)で歌ってくれないかとお願いした。しかしそれが実現する前に、3人は何時間にも及ぶグループチャットをしたという。「そのときの会話でお互い、当時について知っていたことや、感じたことを打ち明けたの。とてもエモーショナルだった」と、アンダーソンは言う。「私たちは意外と同じ気持ちだったのに、当時は気づかなかったことが多かった」とマーティンは言う。こういったことが重なり、元シックのメイン・シンガーであったこの3人は、ネクスト・ステップという新しいトリオを結成することを決意した。しかしこのグループは決して「Chic 2.0」にはならないと、ライトは断言した。

ニューアルバム

 その間、ロジャースはと言うと、2010年に古いシックの録音テープを発見し、またシックとして楽曲制作をしようと以前のシンガーたちに連絡を入れていた。「そのテープにどの曲が入ってたのか解らないけど、当時私たちが録っていた曲はどれも素敵だったのを覚えているわ」とクラークは言う。昔と変わらず、ロジャースは具体的なことはあまり言わずに、新しいレコーディングをするという話をさらっと伝えるだけだったと、マーティンとアンダーソンが言う。「“はいはい、ナイル。とりあえず決まったら教えてね”って答えておいたわ」と、マーティンは言う。2014年の暮れ、ロジャースから連絡があり、アンダーソンとマーティンがスタジオ入りし、ニューアルバムのためにデイヴィスとフォラミと共に新しいヴォーカルをレコーディングした。「ナイルらしいわ。直前の急な連絡。こうしてまた始まるわ」と、アンダーソンは言う。フォラミも、ロジャースのギリギリまで秘密にする性格を良く解っており、彼女は、それは映画制作に似ていて、そのサプライズ感が楽しいと語る。「映画撮影が終わって、撮影現場を去ると、どのシーンが使われるのかは最終的に映画を見るまで解らない。その感覚に似てるの」。フロリダ住まいのマーティンは、当時シックのヒット曲をレコーディングした全く同じニューヨーク・シティのスタジオまで飛び、24時間以内にレコーディングをすませたことを、クスクスと笑いながら語った。「古いヴォーカル・リズムと新しいヴォーカル・リズムの組み合わせ方が凄く良かったと思うわ」と、マーティンは言った。

 「スタジオでテイクを録り終えた後、ナイルとルーシーのほうを見たの。なんだかおかしなことを言っていたわ」と、アンダーソンは言う。「あのとき、なんだか感傷的になっていた。懐かしいスタジオで、昔と同じようにまたレコーディングして。すると、ルーシーがナイルに向かってこう言ったの。“あら、ナイル。ようやくやり方を覚えたのね”。ナイルは彼女を眺めて、“当たり前じゃないか”と答えた。それを聞いて、私たちは本当に家族みたいだなと感じたわ」

 シックの洗練されたサウンドは、ベイエリア育ちのソプラノ・シンガー、フォラミことフォラミ・アンコアンダ・トンプソン(「ファースト・テノールまで低くいける」と言っていた)と、ブルックリンで生まれ育ち、ファースト・ソプラノからテノールまでいける、ハウス・ミュージックでヒットを生んだこともあるシンガー、キンバーリー・デイヴィス(「私だって声域広いわよ!」と彼女)の2人が受け継いでいる。シックのヒット曲を聴いて育ち、ロジャースの強力なサポートをバックにつけた彼女達は、今度こそシック・ブランドの息を途絶えさすまいと意気込んでいる。

 「シックの女性メンバーたちには、いつだって大げさに演出しすぎない気品があった。私たちもその後に続くつもりよ」とデイヴィス。「シックの名を汚さずに、この音楽を最高な形で体現していく。そして何より、皆を踊らせるわ」

by A. D. Amorosi

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