ランDMCサウンドを生んだプロデューサー、ラリー・スミスが築いたもの

November 14,2016 | Category :  Article | Tag :  Kurtis Blow, Larry Smith, Run DMC, Whodini,

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左から、ラリー・スミス、ジャム・マスター・ジェイ、DMC、ラン。Photo by Gene Bagnato

The Triumphs and Tragedies of Larry Smith: ラリー・スミスの栄光と悲劇

ヒップホップの礎を築いた、影の功労者ラリー・スミス

1983年、とあるクイーンズ出身のベース奏者がヒップホップのサウンドに大変革をもたらした。だがそれほど重要な人物が世間に忘れられ、病室で静かに最期を迎えることになってしまったのは、何故なのであろうか?

ランDMCのファーストシングルに収録されていた「Sucker MC’s」で、ランが「Larry put me inside his Cadillac (ラリーのキャデラックに乗せてもらった)」とラップしているのを覚えているだろうか? 彼らの代表曲「Rock Box」のビデオの冒頭では、そのキャデラックの中からラリー・スミスと、ランDMCの面々、そして取り巻きたちがぞろぞろと降りてくるシーンがある。車の上でギターを激しくプレイしているのは、ギタリストのエディー・マルティネスだ。しかしラリー・スミスをただの高級車のオーナーだと認識してはいけない。彼はとてつもない影響力を擁した偉大なるヒップホップ・プロデューサーであり、ラップ・スター、ランDMCとフーディニの初期作の方向性を定めた張本人であり、その後、数多のアーティストが真似することになるサウンドの原型を作り出した人物だ。

ラリーはカーティス・ブロウやファット・ボーイズ、そして自身のバンド、オレンジ・クラッシュなどのヒット曲の制作に関わり、ヒップホップの初期成長期にて重要な役割を果たした。今ではDJプレミアなど、一部の熱心な信奉者しか彼が果たした貢献に敬意を示さないが(DJプレミアは、2009年に発表した“史上最高のプロデューサー5人”のひとりにラリーを選んでいる)、ラリー・スミスはユニークな音楽的技能と、ストリートで鳴っている新しいサウンドをいち早く捉える鋭い洞察力を組み合わせ、ラップ・ミュージックの発展においてかけがえの無い存在となった。

ラッセル・シモンズとリック・ルービンがパートナーとして達成してきたことに、これまで膨大な量の文章が捧げられてきたが、ラッセルの最初のビジネス・パートナーであったラリー・スミスに関してはあまり多くが綴られていない。残念なことに彼は2007年に脳卒中で倒れ、それ以来身体の一部が麻痺し、会話することができない状態で病院生活を送っていた。しかし友人のスパイダーDの厚意により、ラリーが最期に行ったインタビューの録音を聞かせてもらうことができ、この人物の素顔に少し迫ることができた。

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ラン、カーティス・ブロウ、DMC。1984年。Photos by Gene Bagnato

忘れられたプロデューサー、ラリー・スミスとはどんな人物だったのか?

「彼は完璧主義者だった。とてもクリエイティヴな人だったよ」とスミスの長年の友人でありエンジニアのアキリ・ウォーカーが言う。「抜群のメロディー・センスを持っていたし、時代の先を行っていた。とてもやる気のある人で、しかも親切だ。あるとき、俺はツアーの仕事であちこち回っていて、少々カネを使い過ぎていた。彼はうちにわざわざ行って妻に200ドル渡し、“アキリがカネを使いまくってて大変だね。少しでも足しになれば”って言ったんだ」

プロデューサーとして、ラリーはTVのヒット曲を再演奏するという当時の流行の手法には興味を示さず、ミュージシャンとして培ってきた経験を元に、パワフルなベースラインと際立ったドラム、そしてそれを彩る最低限のメロディーで構成される“フューチャー・ショック”サウンドを確立させ、アンダーグラウンドのサブカルチャーであったヒップホップを世界的現象へと昇格させた。彼が手がけた1983年の「Sucker MC’s」は、“オールドスクール期”の終幕を示し、ラップ界の初の国際的スーパースターとなったクイーンズ区ホリス出身のトリオが、その後4年間はトップに君臨するきっかけを作った。ランDMCをブレイクさせたすぐ後、ラリーが手がけたフーディニの「Friends」、「Freaks Come Out at Night」、「Five Minutes of Funk」といった曲もヒットし、その後ラップ史の紛れも無い名曲として語り継がれるようになり、ナズ、2パック、ドクター・ドレー、DJプレミアらのサンプリング・ネタにもなった。

「ラリー・スミスがあのビッグ・ビート・サウンドのキングだね」と、フーディニの1991年のアルバム『Bag-A-Trix』で一緒に仕事をした、ステッツァソニックのドラマー、ボビー・シモンズが言う。「彼が関わったカーティス・ブロウやフーディニの曲は全てスネアやキックがヘヴィーなんだ。あと彼はメロディーやベースラインがとても上手いんだ。“Rock Box”や“King of Rock”を作っていたとき俺もスタジオにいたかった。ヒップホップの成長を促したきわめて重要な曲だからね」

ラリー・スミスの生い立ちと、ヒップホップ界への参入

ラリーことローレンス・マイケル・スミスはニューヨーク州クイーンズ区セント・オールバンズで1951年に生まれた。ベーシストとして音楽活動を開始し、1970年代の前半は自身が尊敬する先輩の後を追う形でツアー・ミュージシャンになり腕を磨いた。「尊敬するミュージシャンは皆、どさ回りをしていた」とラリーは言う。「ラスヴェガスに行ったり、カリフォルニアに行ったり、フランスとかヨーロッパに行ったり。特にウィリー・ティー&ザ・マグニフィセンツというグループに影響されたんだ。だから私もあちこちを回るようになり、演奏を学んだ」

アンドリュー・ジャクソン高校に通っていた10代のころ、ラリーは授業がないときフランシス・ルイス大通りと116番街の交差点にあるClark’s Deliに行き、アイスクリーム・ボックスに腰掛けてベースを練習したという。「1970年に高校を辞めて音楽の仕事を始めたんだ」とスミスは言う。「主に南部のジュークジョイント(註:音楽が楽しめる黒人向け酒場)で演奏していたジェリー・ワシントンと一緒にプレイするようになった。リードプレイヤーになりたかったし、腕を磨くにはどさ回りをする必要があったから、南部に行ったんだ。母親には週末出かけて来るとだけ伝えて、半年間家に帰らなかった!1972年には新車を購入して、その1ヶ月後にはシカゴに移って1974年まで住んでいた。その後はホテル・バンドで演奏するようになった」

1979年、元Billboard誌のライター、ロバート・フォード(ラリーの高校時代の友人)が、これまた音楽ライターのJ.B.ムーアとともに、カーティス・ブロウのクリスマス・レコードを作るという企画を練っていた。作詞はムーアが手がけ、フォードはグルーヴ・トラックを作るのを手伝ってもらうため、ラリー・スミスに連絡を入れた。「私はそのときトロントで『Indigo』という名の演劇をやっていた」とラリーが言う。「彼に“ちょっと戻ってきてくれないか?”と言われた。私はクラシックからジャズまで演奏できる素晴らしいプレイヤー、デンジル・ミラーを呼んだ。そして皆で集まって、“Christmas Rappin’”を作ったんだ。当時(シックの)“Good Times”が大ヒットしていて、シュガーヒルが独自のバージョン(“Rapper’s Delight”)を作った。だから、“私たちならどんなことができるだろうか”って考えたんだ。“Good Times”のベースラインのリズムを変えて、ゆったりとしたグルーヴを作った。人は曲を聴くとき、ドラムと声にばかり集中してしまう。それ以外は、それを引き立てる要素なのさ」

同曲と、その次にリリースされたキャッチーなナンバー「The Breaks」がヒットし、ラリーは引き続きカーティス・ブロウの最初の3枚のアルバムに演奏者やプロデューサーとして参加した。「ラリーとカーティス・ブロウはカーティスのライブのバック・バンドとしてオレンジ・クラッシュを結成することにしたんだ」とアキリ・ウォーカーは言う。「彼らがラッパーのバックを務めた初のバンドだ。ベースはラリー、ギターはデイヴィーDMX、ドラムはトレヴァー・ゲイル、あとボビー・ガスもギター、ラキムの兄のロン・グリフィンとケニー・キーズがキーボード、あとパーカッションにエディー・コロンだ。俺はツアー・マネージャーとエンジニアを任されて、一緒に全国を回ったよ」

「彼は“君が音響を手がけたライブは音像が毎回とてもシャープで明るくて、まるでバンドにホーン隊がいるみたいだな!”って言ってくれた。ホーンはいなかったのに! それで、ライブをするとき彼は毎回、“さあ、ホーンを鳴らしてくれ”と言うようになった。あるとき、このメンバーでスタジオに行って曲を録ろう、という話になった。こうして“Action”という曲が出来た。アリソン・ウィリアムスがリードヴォーカルで、ラッセル・シモンズが“スマーフ”の声をやった。同曲はローカル・ヒットとなって、同じドラム・ビートをラリーは“Sucker MC’s”で使ったんだ」

ラリーは「Action」のリズム・パターンをOberheim DMXというドラムマシンに打ち込み、「Krush Groove」と名付け、ランDMCの「Sucker MC’s」、「Hollis Crew」、「Darryl and Joe」、「Together Forever」の4曲で活用した。更にラリーはカーティス・ブロウと共に、ファット・ボーイズの「Jail House Rap」やドクター・ジキル&ミスター・ハイドの「Fast Life」、コメディアンのロドニー・デンジャーフィールドのコメディ・シングル「Rappin’ Rodney」などをプロデュースした。

「そうやって私はヒップホップの世界で経験を積んだんだ」とラリー・スミスは言った。「観光地に行くのではなくて、実際に彼らの住んでいる地域に行き、直接仕事をしたんだ」

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下段左からラリー・スミス、ヴィヴィアン・スコット・チュウ、ラッセル・シモンズ。中段、LLクールJ、アンドレ・ハリル、ラン、他。Photo courtesy of Getty Images

「“Planet Rock”を私なりに解釈して作ったのが“It’s Like That”だった」 ―ラリー・スミス

ラッセル・シモンズとの出会いと、ランDMCの誕生

カーティス・ブロウとの最初のレコーディング・セッションの際、ラリーはほんの10ブロック先という近隣で育ったにも関わらず、それまで会うことのなかったラッセル・シモンズと初めて挨拶を交わした。そしてふたりはRush-Groove Productionsを立ち上げ、ジミー・スパイサーの「The Bubble Bunch」と「Money (Dollar Bill Y’All)」、そしてラヴバグ・スタースキーの「You’ve Gotta Believe」を共同プロデュースした。そしてあるとき、ラッセルは弟のジョセフ・シモンズをラリーに紹介した。「私はジョー(ジョセフ)をカーティス・ブロウのツアーに連れて行ったんだ。彼は当時DJランとして知られていたが、とても優秀なDJだった」

1983年、ジョー・シモンズ、ダリル・マクダニエルズ、そしてジェイソン・ミゼルはトリオとしてデモを録音することになった。「ジャム・マスターというのは、元々ジョーの名前だったんだ」とラリーは説明する。「しかしレコードを作る際にジェイ(ジェイソン)がジャム・マスター・ジェイになり、ダリルがDMCと名付けられた。意外と知られていないことだ」

1983年の冬に初めてラリーと出会ったときのことを、スパイダーDはこう覚えている。「ラッセル・シモンズの紹介でラリーに会いにいくことになった。彼は当時リンカーン・パークのそばのクイーンズ区サウス・オゾンという所に住んでいた。俺は“サウス・サイドに行かなくちゃいけないのかよ? これはピストルを持って行かないとヤバいな”と思った」

「私は元々セント・オールバンズ出身だからそこは地元じゃなかった」とラリーは言う。「ただ平穏に暮らして良い音楽を作りたかったが、余所者というだけで、“おい見ろよ、あいつ赤いスニーカーをはいてるぜ。やっちまおう!”となるような場所だった」

「本当のところ、結局ピストルは持って行かなかったんだ」とスパイダーは笑った。「だがナイフは持っていたぜ! 到着するとラリーはランDMCの“Sucker MC’s”の8トラック・デモを聴かせてくれた。Profile Recordsから1,500ドルでオファーが来ていて、受けるか検討していたそうだ」

「あれは4トラックだったね」とラリーは訂正した。「カセットからカセットへ、そしてまた別のカセットへと移行して制作していたよ。皆自分たちの役割を果たすことに専念していた。“Sucker MC’s”がああいった曲になった理由は、ラッセルが“こういう風にラップするんだ。じゃないと意味がない”といった風に細かく指示していたからだ。ラッセルはビジネスマンだった。私はただ音楽を作りたいだけだったね。プロデュースするアーティストのために一からカスタムで楽曲を作っていった。“Planet Rock”を私なりに解釈して作ったのが“It’s Like That”だった」

ラッセル・シモンズとラリー・スミスが生んだランDMCサウンド

ラッセルとラリーが世に放った、音数の少ない簡素なサウンドは、意図的ではなく必要にせまられたからであった。「“Sucker MC’s”はただ彼らのラップとドラムマシンの音だけでできている曲だ」とラリー・スミスは2006年のブライアン・コールマンとのインタビューで話している。「もし予算があったら、ミュージシャンを雇ってランDMCのファーストアルバムを作っていただろう。しかしカネが無かったんだ。自分たちで投資して、出来る限りを尽くしてああいった作品を作ったんだ」

「俺たちは、マンハッタンのブルジョア向けの高級ディナークラブで前座を務めた」とスパイダーが言う。「客層はヒップホップなんて聴かない連中だ。ランたちは“It’s Like That”をパフォーマンスしたが、動きはまるで木製のあやつり人形みたいにぎこちない。プラッド柄のジャケットを着てPumaを履いた彼らはただ突っ立ってるんだ。Dの眼鏡のレンズがひとつ落ちたのに、彼は拾いもしなかった! ひどいライブだったよ。終わったあとラリーのキャデラックに乗り込んだ。ラリーは大激怒だ。“おい、お前達クソワックだったぞ! The Feverであんなワックなライブをやってみろ、撃たれるぞ! 2週間前にニュー・エディションがライブをやったときはワックすぎて発砲があったんだ!”と言っていた」

当時“The Fever”(ことDisco Fever)と言えば、ラップ・ワールドの中心にあるクラブであった。「The Feverではカーティス・ブロウなんかとよくハングアウトしていたよ」とラリーが思い出す。「グランドマスター・フラッシュは向こうのほうでチルしていて、たまにスプーニーも来ていた。面白いことに、私たちは皆仲が良かったんだ! グランドマスター・カズとか、皆良くきていた。“あいつらのことは嫌いだ”とか普段は言ってる人達でも、いったん暗いクラブの中に入ってしまえば皆仲良くしていた。共に笑って、ジョークを言い合ってな。お互い、大事にしなくては駄目だ。ダサい奴らでもな。彼らのやってることを見て、その逆をやればいい」

ラップ・ミュージックに変革をもたらした、ロックとヒップホップの融合

ランDMCの成功においてラリー・スミスの最大の功績は、ラップ・ミュージックにエレキギターの演奏を取り入れたという点かもしれない。これはよくリック・ルービンの手柄として語られてしまうことである。「俺たちはGreene Street(註:ニューヨークのスタジオ)で制作をしていた」とスパイダーDが語る。「ロックとヒップホップを融合させたのは、そこで“Rock Box”を作った彼が最初だったんだ。彼はベースを引っ張り出して、あのド迫力のベースラインを弾き始めた。そのベースラインがバックボーンとなって、あの革新的な曲が出来上がったのさ」

「私の音楽ルーツなんだ」とラリー・スミスは説明した。「昔はロックンロール・バンドで演奏していたんだ。ハードでダーティーなスピード・メタルが好きだった。私のルーツだよ」。「Rock Box」は初めてMTVで放送されたラップ・ビデオとして歴史を作り、ニューヨーク外へ彼らの存在が知れ渡る大きなきっかけとなった。

「彼と、Greene Streetのロッド・フイがランDMCの曲のドラムにリバーブをたっぷりかけ始めたんだ。それがそのうちヒップホップのシグニチャー・サウンドになった」とアキリが指摘する。「ロッド・フイはおそらくロック系の人達に学んだんだろう。それをヒップホップのトラックに応用し始めたんだ」

ラリー・スミスがフーディニのために行ったプロデュース・ワークも同じほど革新的であり、こちらもシモンズを通じて生まれた機会であった。2009年にジェシー・セルワーが行ったフーディニのエクスタシーとのインタビューにて、エクスタシーはこう語っている「ある晩、(俺とラッセル)はDisco Feverに来ていて、彼から“ラリーと会ったほうがいい”と提案されたんだ。それでラリーと仲良くなり、レコーディングをすることになったとき、俺は“ラリー、アイディアを聴かせてくれ”と言った。彼の家に行くと、彼はあっという間に目の前でアイディアを形にして、それが“Five Minutes of Funk”になったんだ。あれは30分程度でできた曲だ」

「彼が俺たちと仕事をした具体的な理由は、彼がバンドメンバーのベーシストの人と車の修理をしていたとき、ファンベルトがそのベーシストの指を切り落としてしまい、彼は指を拾い、急いでその人を病院に連れて行ったそうだ」とエクスタシーは言う。「ラリーはその人の手術の費用を払うのを手伝うために、まとまったカネが急遽必要になったんだ。“君たちとロンドンに行くよ。ただ先にギャラをもらえないか?”と言っていた。彼もベースプレイヤーだから、“あれが自分だったら”と考えたんじゃないか」

フーディニのブレイクと、ラッセル・シモンズとの決別

フーディニのセカンドアルバム『Escape』は1984年に2週間に渡りロンドンのBattery Studiosでレコーディングされた。「Jive Recordsはロンドンにすでにスタジオを持っていたから、アメリカでレコーディングする費用を払いたがらなかったんだ」とアキリが説明した。「それはラリーにとっては好都合だった。ロンドンにはまだアメリカになかったレコーディング技術や楽器があったんだ。新しい音で実験をすることができる。だからフーディニのアルバムの音はあんなに良いんだ。当時の他の曲とラリーの曲を聴き比べてみれば違いはわかるだろう。ラリーの曲は音が大きくてクリーンなんだ。彼は特にブレイクを作ることが得意だった。楽器の音を抜いて、ドラムとベースだけ聴こえる部分を作ったり、ドラム、ベースとギターだけとか。彼の手腕に感心させられたよ」

そしてラリー・スミスは、アーティストにプレッシャーをかけることの重要性を理解していた。「(ラリーは)ランたちのことをいつも言うんだ」とエクスタシーが言う。「彼らとはライバルだったからね。おそらくランDMCのスタジオに戻ったときは、俺たちのことを言っていたんだろう。“その曲は悪くはない。しかしランたちの曲を聴いたら恥ずかしくなるぜ”とか言うのさ。ラリーはアーティストのエゴを取り払うために、“お前はクソだ”とか、“誰々のほうが上手い”とか言うんだ。それは怒らせるためでも、辞めさせるためでもなくて、より良いものを作らせるためさ。もしラリーをだまらせることができたら、合格というわけだ。もし曲を録り終えて、彼が何も言わなかったら、良いものができたとわかる」。『Escape』がヒットし、スターの仲間入りを果たしたフーディニは、その次の年に『Back in Black』をリリースし、同作はまたヒットとなった。

Def Jamが軌道に乗り始めた頃、ラリーとラッセル・シモンズの関係性に亀裂が生まれた。「彼がDef Jamと仕事をし始めたとき、私はアップタウンにて、腕を磨いていた。ラッセルはダウンタウンにいたんだ」とラリー・スミスが言う。「ラッセルはリック・ルービンと組むようになり、リック・ルービンはLLを連れてきた。カネのニオイがしたよ。ラッセルには怒ったね。カネで裏切られたんだ」。ネルソン・ジョージが執筆した1985年のVillage Voice誌の記事によると、ラリーはその後Jive Recordsとパブリッシングの契約を結び(ラッセルは他社と契約をすることを約束していたが)、映画『Rappin』の音楽監督の仕事を受けた。そうすることで、ラッセルたちの映画『Krush Groove』と直接対立することとなった。「ラッセルの笑顔を拭い払ってやった」とラリーは言った。

「ミュージシャンである私は、どうしても自分が作っていないものを使うことができなかった」 ―ラリー・スミス

業界に辟易し、サンプリングを拒絶したラリー・スミス

1980年代の終わりが近づく頃には、ラリーは業界のプレッシャーに嫌気が差していた。「私がやった最初のフーディニのアルバムは6週間で完成したんだ」と彼は言う。「ひとりのプロデューサー、ひとつのグループだ。その次のアルバムは9ヶ月かかった。その次のは1年半かかった。気づいたら4年経っていた。そして売れれば売れるほど、自分のやっていることに疑問を抱き、満足感が得られなくなった」。ラリーとフーディ二は、1994年のターミネイターXの「It All Comes Down to the Money」で最後にもう一度だけ共作しているが、意外なヒットであった同曲は、関わった全員にとって最後の良い想い出となった。

マーリー・マールのサンプル主体のサウンドが80年代後半のヒップホップを独占しだすと、ラリーは距離を感じるようになった。「サンプリングを受け入れることはできなかったんだ。完全に否定していたね」とラリーはブライアン・コールマンとのインタビューで明かしている。「ミュージシャンである私は、どうしても自分が作っていないものを使うことができなかった。つまり私がこの世界を抜けたのは自分のエゴのせいなのさ」。ラリー・スミスの熟練の技巧とビジョンを無くしたことは、ヒップホップにとって大きな損失となったが、彼の与えた影響は今でも色褪せない。

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デイヴィーDMX、ラリー・スミス、アキリ・ウォーカー。ラリー・スミスのお見舞いにふたりが訪れ、オレンジ・クラッシュの同窓会となった。Photo courtesy of Akili Walker

この記事を執筆するためのリサーチの課程で、私はこの偉大なるパイオニアがニューヨークの設備のひどい介護施設で寝たきりになっており、世間に忘れられ、日に日に衰えていること、また、彼が必要としている治療や介護は経済的な理由で受けることができないという衝撃的な事実を知りショックを受けた。そして残念ながら、ラリー・スミスは2014年12月18日に帰らぬ人となった。

Words by Robbie Ettelson for medium.com/cuepoint

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