David Axelrod Part 1

February 04,2010 | Category :  News | Tag :  David Axelrod,

by Eothen Alapatt

次のインタヴューは1999年と2000年に行われ、Big Daddy誌に最初に掲載された。

先日、このインタヴューに関していくつか確かめたいことがありデヴィッド・アクセルロッドに電話した。私は彼の友達でもあり、卓越したアレンジャーでもあるH.B.バーナムについて尋ねた。そうすると彼は信じがたい話をしてくれた。彼がバーナムに会ったのは1950年代前半だった。その日2人の有望な若者はロスの西にあるライマート公園で女の子達と遊んでいた。いつもはそことまったく別の場所、ハーヴァード・レクリエーション・センターで運の悪いかもを探しているチカーノの若者が、今日はなぜかライマート公園に現れ、アクセルロッドに難癖を付けてきた。なにが起こったかも分からないうちに、仲間の1人がナイフを取り出しアクセルロッドの腹部に切りかかっていた。アクセルロッドが、今でも残っているその傷跡を押さえていると、バーナムは傷ついた彼を肩に担ぎ、邪魔をする相手全員をなぎ倒して、公園を後にした。チンピラ達も何が起きたかを悟り、去って行った。「バーナムのパンチはフェルナンド・バルガスよりも強いよ! 彼が君をパンチしたら、1発でノックアウトだ。彼は背は低いけどパワフルなんだ」とアクセルロッドは興奮気味に言う。 
アクセルロッドの人生はセンセーショナルだった。まず、彼が1960年代にルー・ロウルズやキャノンボール・アダレイなどの有名なミュージシャンと一緒にR&Bやジャズの名盤を作ったということは忘れてみよう。また彼が、DJシャドウや似たようなサンプリング・アーティストよりもっと前にクラシックのメロディーとファンキーなバック・ビートの融合計画を立てたという事実も忘れてみる。このインタヴューはアクセルロッドの人生を象徴する物語として読まない手はない。 
しかし、やっぱり話の中心は音楽になってしまうよね? みんなが知っているようにアクセルロッドはアメリカの音楽の中でもっともダイナミックなものを作った。
デイヴィッド・マッカラムの「The Edge」
アダレイの重要作「Mercy, Mercy, Mercy,」や
彼の1968年のデビュー・アルバムにしてクラシック「Song of Innocence」を筆頭に、
たくさんの名作を残してきた彼の想像力はとどまることを知らなかった。彼は自分の音楽性を曲げたことは1度もない。つまりそれは彼がワックなアルバムを作ったことがないということを意味している。 
では深呼吸して、私たちが捉えようとしたデヴィッド・アクセルロッドの音楽人生を深く掘り下げてみる。L.A.のサウス・セントラルで産声を上げてから、ジャズ・ミュージシャンのジェラルド・ウィギンズのアシスタントという下積み時代、それからキャピトル・レコードで活躍し、今の北ハリウッドでの生活まで、彼の輝かしい軌跡を見ていくことにしよう。 
ではアクセルロッドさん、 
デイヴでいいよ。それかアックス。みんなそう呼ぶから。 
そう言えばアルバムのジャケットにはそう書いてありましたね。ほんとにアックスでいいですか? 
もちろん。 
ありがとうございます。では、アックスはL.A.のサウス・セントラルで生まれましたね?  
うん。1933年生まれだよ。あそこで育ったから、あそこのことは自分の手相みたいに分かるよ。 
あなたの幼馴染みであり音楽仲間であるドン・ランディが、あなたは黒人の多く住む地域で育ったと言っていましたが。 
そうだね。黒人居住区だった。 
あなたは黒人ではないですが? 
そうだけど黒人に育てられたから、自分を黒人だと思ったこともあったよ。 
それはアイデンティティの混乱ということになるんですかね? 自分の身の回りの人と自分を重ね合わせてたんですね。 
そのとおり。そのおかげで苦労したこともあったよ。ジェラルド・ウィギンズがそれを治そうとした。私はそれに関する変な質問もしたりしてたからね。例えばジェラルドが誰かとレコードの話をしている時に、彼らに近づいて「それで、その人は黒人なの?」と聞いたりしてた。まあそれは「そいつは白人なの?」という質問と同じ意味なんだけど。そして実際にそれについて語ったりしてたんだ。ジェラルドは私に「そんな質問はするな。問題なのはその人が才能があるかどうかだろう」と言ってたけどね。私はその人が白人ならいい音楽なんて作れるはずがないと真剣に思っていたからね。 
本当ですか? 
まあまだ若かったから。生まれ育った場所なんて関係ないんだ。私の父にとって頑固であることは馬鹿げたことであった。あの頃はお金がなかったからホワイト・フライトの時は東へ移っていくしかなかったんだ。白人はみんな西へ移っていったよ。黒人を避けるためにね。だけど私たちは男3人女3人の家族だったから東に行ったんだ。ベッドルームが3つある家を探さないといけなかった。その条件が合えばどこでもよかったよ。 
音楽関係以外で、人種が問題になったことはありましたか?
1度もない。問題になっちゃいけないんだ。それが問題なんだけど。今最も大きな問題はやっぱり人種だよ。 
ですが、今回は音楽に的を絞りましょう。30年代の白人の音楽と30年代の黒人の音楽は全然違いますよね。 
全然違うね。だけど知らなきゃいけないことがある。ジャズの歴史を知りたいなら、すべてを勉強する必要がある。今日は白人、黒人関係なく、全ミュージシャンに対して言うよ。たいていの人はベン・ウェブスターが誰かさえ知らない。これはとても悲しいことだ。みんなきちんと歴史を知る必要がある。皮膚の色なんて関係なしにね。 
おっしゃるとおりです。 
私にはドラマーを目指す兄がいてラッキーだったよ。彼はよくビッグ・バンドのレコードに合わせて練習してた。私は兄の隣に座っていたから、そうやってレコード・プレイヤーに触れることになったね。隣に座るだけで私に5セントくれるんだ(笑)。私はすぐに疲れてたけど、兄はそんなこと気にしなかった。兄は12か13歳上だった。だから私が5歳の時は兄は17か18歳ということになるけど彼は全然気にしてなかったみたいだ。どっちにしても音楽を聴かないといけなかった。彼はベニー・グッドマンやカウント・ベイシーをよく聴いてたな。その2つのビッグ・バンドが彼のお気に入りだった。 
まだまだ幼い5歳の頃にジャズを聴き始めたんですね。年を重ねるごとにあなたはただ兄のレコードを鳴らすだけではなく、自分の好きな音楽を聴き始めますね。何が好きでしたか?
10代前半は主にリズム・アンド・ブルースを聴いた。ちなみにR&Bはシカゴのヴィー・ジェイ・レコードから始まったという馬鹿げたことを言う人がいるけど、ほんとはL.A.が最初だ。エイモス・ミルバーンの「Bewildered」を覚えてるかい? 
もちろんです。 
彼のことはみんな好きだったよ。とても服の着こなしがうまくて、いつもポケットから5センチぐらいチェスターフィールドを出してたんだ。その頃まだ若くて、15歳ぐらいの自分たちにはとてもかっこよく見えてね。今で言うとポケットから5センチぐらいマリファナをちらつかせている人みたいな感じかな。 
それが1950年代で、その頃から激しい音楽に囲まれてたんですね。 
うん。いろんなクラブを回ったよ。ミリオン・ダラー・シアターとか。ゲストがR&Bシンガーやビッグ・バンドだったからね。映画もやってたし、そういうライヴもやってたんだ。 
音楽を探してL.A.のストリートを歩き回ったんですね?
それが日常だった。父は私が12歳の時に他界したよ。あと戦争もあった。私は母の手には負えないほどのワルで、しかも男たちはみんな戦争に行ってたから、私はとにかくやりたい放題やった。私と私の連れはみんなクラブ好きだった。実際に音楽が好きだったのは何人かだったんじゃないかな。飲むことが好きなやつがほとんどだったと思う。あの頃はほんとに荒れていたよ。警察なんてきちんと機能してなかった。それどころか解雇されていってたよ。とにかく自分がクールでないといけなかった時代だ。 
印象的なライヴはありますか?  
もちろん。T.ボーン・ウォーカーだ。B.B.キングも「彼が俺たちの父なんだ」と言っているぐらいだ。私の中ですばらしい酔っ払いが3人いる。年代順に言うと、1位がT.ボーン・ウォーカーで2位がジョニー・マーサー、そして3位がゴードン・ジェンキンスっていうアレンジャーさ。私は彼らのことを「ゴッド」と呼んでいる。それほど好きだったんだ。彼らと座って話すだけで最高だった。えっと、どこまで話したっけ?
えっと、ほかに誰を聴いてましたか?
そうだそうだ。エイモス、ロイ・ミルトンとソリッド・センダーズにカミール・ハワード、ピー・ウィー・クレイトンやルイ・ジョーダンかな。L.A.ではいろんなトラブルに巻き込まれ始めてて、東の方に親戚がいたからそっちに移った。私がニュージャージーにいた時、イングルウッドである人に出会った。その人はガソリンスタンドを経営していて、私の叔父のもとで働いていた。100台もある配達用トラックを全部洗っていたよ。彼はL.A.に住んだことがあって、私の母校であるドージー高校を卒業していたんだ。すごい偶然だろ? 
その人の名前は? 
ジェームズ・サミュエルズ。結局1番の友達になったんだ。彼は私をブラック・エルク・クラブというところに連れて行ってくれた。 
ブラック・エルクとは?
私もよくは知らないんだけど、有名らしい。そして人種差別政策をとっているんだ。だからブラック・エルク・クラブとホワイト・エルク・クラブ両方あった。そこはニュージャージーだったけどミシシッピのビロクシとなんら変わりはなかったよ。人種差別がひどかった。幸い彼のようにいい人たちが私を受け入れてくれてね。親友が何人かできたよ。 
ジャズをよくチェックしてたんですか?
やっときた! ジェームズがニューヨークに連れて行ってくれたんだ。私たちは52ストリートに行った。そこで始めて本物のジャズを聴いたよ。すごすぎて信じられなかった。  
誰をチェックしてたんですか?  
みんなだ。誰か言ってみてくれ。絶対その人も見たはずだから。ドキュメンタリーみたいだった。スリー・ジューシズ、オニクスとか。金曜日にはサヴォイ・ボールルームまで行ったよ。L.A.に帰った時には私はジャズ一筋になっていたよ。ビーボップ。それだけだった。 
いつL.A.に帰ったんですか?
たしか1953年だったと思う。子供じゃないけど日付に弱いんだ。だけどあれは20歳ぐらいだったな。私はL.A.で育っただろう。だから寒さに弱いんだ。ニュージャージーで冬を迎えた時は耐えられなかったよ。だから海軍に入って、それからL.A.に帰ることになったんだ。そこでヘロインにはまってしまった。ある時はサウス・サイドの中心、セントラル・アヴェニューにいた。いろんなクラブやレストランがあるところだ。中でもテキサス・バーべキューは最高だった。話が逸れたが、私がターバン・ルームというところに行ったら、ジェラルド・ウィギンズ・トリオというグループがいた。 
誰なのか知っていましたか?
いいや。全然知らなかった。その時はバド・パウエルがピアニストで1番だと思っていたからね。あの時期はコネクションを探していたんだけど、私が酒を頼むとスリムという名のバーテンダーが「ツケを払うときがきたぜ」と言ってきた。彼は、ただの若い白人である私を覗き込んできた。ヘロインのせいで私は125ポンドぐらいあったと思う。彼も馬鹿じゃないから、もし私がお金を払って、友達が来たらどうしようと思った。長くクラブに通っていると、次に何が起こるかだいたい想像がつくものだ。特にセントラル・アヴェニューでは。するとどこからか「その人たちの分は僕が払う」と聞こえてきた。それはジェラルド・ウィギンズだった。なぜ彼がそう言ったのかとても不思議だった。まあ結局私の友達は来なかったね。がっかりだったよ(笑)。ウィギンズは私に何をやってるか聞いてきた。私はとくに何もやってないと答えた。私は車も持ってなくて、彼は私がどこに住んでるかを聞いてきて、「送ってやるよ」と言ってくれた。 
そこで最高のジャズ・ミュージシャンと関わりを持ったんですね。興奮しましたか?
本当のことを言うと、最初彼はゲイだと思ったよ。だからこのまま送ってもらってカネを盗ってやろうと思ったよ。だけど彼の家のドアの前まで行くと、そこには彼の奥さんがいたんだ。 
それで安心しましたか?
安心はしてないけど、彼にとってはよかったんじゃないかな。本当にカネを盗って逃げようと思っていたからね。まさに「The Man Who Came To Dinner」みたいだったよ。 
それはなんですか? 映画ですか?
そうだよ、若い人は知らないのか。とってもパワフルな連載コラムニストの話なんだ。その人が他人の玄関で転んで、その家に住み着くことになるんだ。とっても面白いよ。 
あなたとジェラルドはそんな感じだったんですか? 
そうだね(笑)。1日に18時間は一緒にいたよ。どこでもついて行った。最高だったよ。いろんなすごい人を紹介してもらってね。 
その時は何をやっていたんですか?
座って彼らがジャズについて語るのを聞いてたよ。聞くだけでいろんなことが勉強になるんだ。今後一緒に音楽活動することになる素晴らしいミュージシャンもいろいろと紹介してもらえたしね。 
それは例えば誰ですか?
ビル・グリーン、バディー・コレット、ジョニー・ケルソとか。あとドン・バグリーっていうベース・プレーヤーも。 
彼はなぜあの夜ターバン・ルームであなたを選んだのか説明しなかったのですか? 
しなかった。今でもなぜだかわからない。ジェラルドはもとから気まぐれなんだ(笑)。私がその質問をすると馬鹿じゃないかという目で見てくる。 
でも、そのおかげで今のあなたがいてくれて私としてはとても嬉しいです。彼のおかげで音楽制作に携わるようになったのですか?
うん。変な話だよね。彼とは4年ぐらい一緒にいた。彼は音楽的には何も教えてくれなかったけど、彼とその友達の会話を聞くだけでためになったよ。最高の演奏者、アート・タタムとか。 
えっ、アート・タタムですか? ピアニストの彼を最高の演奏者だと思うんですか? 
うん。ホルン・プレイヤーじゃダメだろ。タタムの指は10本あった。ということは10個の楽器がついてるようなもんだよ。彼は本当に素晴らしかった。世界に1人の逸材だよ。アーサー・ルービンシュタインなんて関係ない。彼のレコードは聴いたこともあるし、いくつか持っているけど。アート・タタムの右に出るクラシック奏者はいないよ。 
すごい人生を歩んでいますね。最初にブレイクしたのは? 
それはサウスウェスト・ディストリビューティング・カンパニーに就職した後だね。最低の仕事だったけど、そのおかげでレコード会社の道が開けた。オーナーがね、ボブ・シャーマンっていうんだけどタンパ・レコードっていうレーベルを持ってたんだ。プロモーション業をやらせてくれた。で、彼はジョージ・ジェンキンスというドラマーと「The Last Call」というレコードを作った。ジョージは30ストリートに住んでいたから知っていたよ。私があのレコードをプロモーションしてチャートに食い込ませたんだ。アメリカ中を回ってがんばったよ。私はプロモーションが上手かったんだ。とにかく、ある時ウィギンズはひげを剃っていたんだけど、私がピアノを弾いていると、ちなみに長い間一緒にいたけど一緒にピアノの前に座ったことは1度もないんだ。1度もね。そして彼がいきなりお風呂場から出てきた。忘れもしないよ。シャツも着ずに、しかもひげをきれいに片方半分だけ剃っていたんだ。あなたがどうやって剃るかは知らないけど……。 
いやそうはしませんよ! 
そうだよね。私もそうはしないよ。だけどそれが彼のやり方みたいだった。ほんとに変わった人でね。話がずれたけど、彼がもう一度同じように弾いてみろと言うんだ。私はどんな風に弾いたか覚えてなかった。すると彼は私の方を見て、まだまだ素人だなって言ってまた髭を剃りに戻って行ったよ。そしてまたピアノをいじっていたらさっきと同じように弾けたんだ。今度はどうやったか覚えたよ。ウィギンズは髭を剃り終えると5線紙を持ってきて、Cの音階と高音記号、低音記号を書いたんだ。そして私に「5線譜ノートを買って、Cの周りに音階を書いていけば、全部覚えられるだろう。そしてFメジャーにいってそれからEフラットメジャー。やっぱり音階の本を買って全部覚えろよ。音階全部とそれに関係するものも全部覚えろ」と言った。そして私が彼の満足するところまで巧くなると「じゃあ今から楽譜の読み方を教える」と言ってくれた。 
では、それが最初の公式トレーニングになったのですね。 
うん。とってもフォーマルな感じだったよ(笑)。私はメトロノームの前に座らされた。彼にはいろんなタイプの音符を教えてもらったよ。4拍子や8拍子。そして彼がそれを実際に弾いてくれた。そうやって楽譜の読み方を習ったんだ。 
ウィギンズが基本を教えてくれたのですね。だけどご自身でも相当練習をされましたよね? 
1日中ね。この頃には私はモチーフ・レコードで働いていた。それはジャック・デヴァニーと出逢ったからだ。彼にはほんとにお世話になったよ。彼はもう死んでるんじゃないかな。最後に会った時には完全なるアル中だった。だけど最初に会ったのは1954年ぐらいでとてもいい人だったよ。彼には勢いがあった。彼はCash Box誌の西海岸代表者だったんだ。Down Beat誌がジャズのバイブルだったけどCash Box誌の方がもっと大きかった。みんな彼の言うことを聞くんだ。モチーフ・レコードはカリフォルニアで最もお金持ちの人が経営していて、ミルトン・W・ヴェッターという人なんだけど。ジャックがその人に私を雇ってくれるように頼んでくれたんだ。もともと私はセールス・マネージャーだったんだけどプロデューサーをやってた人がクレイジーすぎてクビになって、気づいたら私がプロデューサーになってたんだ。 
自分の力に自信はありましたか? まだまだとても若かったですよね? 
うん。いつも自信満々だよ。なぜだかわからないけど。 
では最初のデイヴィッド・アクセルロッド・プロデュース作について。それは誰でいつでしたか? 
もちろんジェラルドとだよ。彼とは1番やりやすかった。1956年でジェラルド・ウィギンズ・トリオ。「3 O’Clock in the Morning」とかいう古い曲をやった。アルバムのタイトルは忘れたけどあれが最初に手掛けた作品だ。プロデューサーは映画で言うとディレクターだからね。ディレクターがやってることを、プロデューサーもやらないといけない。歌も物語みたいなもんだろ。アレンジはシナリオとなり、ミュージシャンやシンガーは俳優だ。エンジニアはカメラマンみたいなもんかな。プロデューサーはボスだ。すべてを監修しないといけない。私はこういう風に考えていつもやっているよ。 
1958年か59年にハロルド・ランドのアルバム『The Fox』をプロデュースしましたよね? あれはあなたのランドマークとなりましたね。理由はあとで触れるとして、最初のウィギンズのレコードとその『The Fox』との間の期間、どんなことをして音楽のスキルを上げたんですか? 
えっと、実際モチーフ・レコードは大したことなくて、あんまり関係ない。私は自分の好きなように自由にできていたんだけど、一応雇用上年に4つはレコードを作っていた。その一方、他のレーベルでも活動してた。デヴァニーはコンスタントに仕事をくれたよ。お金は半分ずつ分けてたんだけど、とても少なかった。アルバム1つ作って100ドルいくかいかないかだったね。 
しかし、いい経験になりましたね。 
間違いない。当時多くのR&Bレーベルはジャズ部門を作り始めていた。デヴァニーが私を雇ってくれるようにスペシャルティ・レコードに頼んでくれてね。ここでも最初はやっぱりウィギンズとやって、「Around the World in 80 Days」をやった。スペシャルティがもう1つやってほしいと言ってきたから、バディー・コレットとやった。関係者たちはとても気に入っていたよ。そして次はフランク・ロッソリーノとやった。私はDown Beat誌のインタヴューで、ウェスト・コーストのジャズは「湿気た夢みたいな音楽だ」と言ってやった。傑作だろ?ロッソリーノがその記事を読んで噴き出したんだ。そしてすぐに私に電話してきて「一緒にレコードを作ろう」と言ってくれた。 
うまくいきましたか? 
最高だった。フランクはほんとにおもしろいやつでね。ずーと後になって、ロッソリーノは妻を殺して、2人の息子も銃で撃ったんだ。1人は生き残ったけど、1人は死んだ。そして自分も撃って自殺した。彼にそんなダークな面があったなんて信じられないよ。彼が深刻になっているのさえ見たことないのに。まあそれはそうとして、セッションの時、フランクは私に「ハロルド・ランドと仕事してみないか」と言ってきた。その少し後、デヴァニーから連絡があって、ハイファイ・レコードとの面接の話を持ってきてくれた。とてもいいレーベルだよ。そこで働くことになったんだが、給料は私が見たこともない額だった。週に175ドル。50年代ではものすごい大金だったよ。そこでアーサー・ライマンのレコードを手掛けた。いい仕事ができたよ。初めてゴールド・ディスクも取れた。だけど、ハロルドとはジャズをやった。実は『The Fox』は大きな賭けだったんだ。ハイファイの名前でラジオ・レコーダーズというスタジオをブッキングしたんだけど、そのお金は個人的に貸してもらったんだ。出来上がったものをハイファイのオーナーであるリチャード・ヴァーンのところに持って行くと、幸運にも彼が気に入ってくれて買うと言ってくれたんだ。そしていくらほしいか尋ねられたから200ドルと答えたよ。彼はすぐにチェックを切って、そのお金を私がお金を借りてた人に渡した。 
そのレコードは売れましたか? 
ジャズのレコードにしては売れた方だと思う。もっと大事なのは、ロッソリーノのアルバムは発売されな かったから、『The Fox』がL.A.で1番ハードコアなレコードだった。シリアスなビーボップで、東海岸で作られたものとなんら変わりはなかったよ。 
間接的に、そのレコードがジュリアン・”キャノンボール“・アダレイとの架け橋になったんですね。 
うん。そしてアダレイとは1番の親友になった。どれだけ親友だったか言葉では表せないぐらいだ。ラロ・シフリンは彼のことを「音楽のブッダ」と呼んだ。まさに同感だよ。ほんとにすばらしい人だった。私の息子が死んだとき、彼は16校の大学を回るツアー中だったんだけど、私のそばにいるためにツアーをキャンセルしてくれたんだ。大金を捨ててまで。 
人生で1番沈んでいた時期ですね。 
そうだね。キャノンがそれを乗り越える手助けをしてくれた。出会いは今考えると変な感じだったな。1962年のことだ。私はプラザ・レコードで働いてたんだけど、道1本隔ててこの部屋にいたんだ。そしたらアーニー・アンドリューズとキャノンボールが歩いていて、彼らは自分たちが手がけたジョー・ザヴィヌルのレコードを視聴しようと待ってたみたいだったが、アーニーが私に気づいてくれてこっちに来たんだ。アーニーが私をキャノンに紹介すると、「あぁ、あの『The Fox』を作った人だ。いつか出会う気がしてたんだよ」と話してきた。すごいことだった。彼はなんでも聴くんだ。そのまま1964年にキャピトル・レコードに移って、6ヶ月たった時、キャノンボール・アダレイと契約した。彼は副社長のヴォイル・ギルモアと社長のアレン・W・リヴィングストンにオフィスに呼ばれて、「どのプロデューサーと働きたい?」と聞かれ、「デイヴィッドです」と答えた。その時キャピトルにはデイヴィッド・カヴァナーっていうすばらしいジャズのプロデューサー兼アレンジャーがいたから、リヴィングストンはギルモアに「カヴァナーに電話して連れて来い」と言った。キャノンボールは「いやいや、アクセルロッドの方です」と言った。あの時の事は今でも鮮明に覚えているよ。キャノンボールは『The Fox』を聴いてたから私がビーボップに精通していると知ってたんだ。カヴァナーはもう年でね。私はモンクは好きだったけど、カヴァナーはジャズはベイシーで終わったと思ってたんだ。 
彼は古臭かったんですね。 
なんとなくね。けど彼はすばらしいレコードをいくつも作って、ヒットも量産したんだよ。 
あなたは期待の新人キャノンボールと仕事することになったんですね。当時キャピタルでは他に誰を手掛けていましたか?
主にルー・ロウルズだね。 
R&Bですね。
あぁ、だけど全然売れなかったよ。キャピトルはR&Bが弱かったんだ。1965年の終わりまでにがんばってR&Bを売り出そうとしてたんだけど、キャピトルではもうダメかと思った。私がいいレコードを作っていたのは間違いなかったんだけど、リスナーに買わせることができなかったんだ。そこで黒人音楽の専門部署を作ってはどうかと思いついた。ヴォイルにそれを伝えると、少し考えて、アレンが気に入らないだろうと言った。だから彼は企画をプロモーションの副責任者に持って行った。その人はR&Bが好きだったから、その企画にゴーサインを出した。考えてもみてくれ、1965年だよ。ワッツ暴動が起こった年にどこの白人が南部にレコードのプロモーションをしに行くかい?誰も行かないだろう。そこで私はこのプロジェクトをフラッシュ・レコードのデイジー・レイノルズのとこに持って行った。私は黒人のプロモーターさえいればいけると分かっていたからね。アレンはとてもいかした人で、R&Bでメジャー市場に売り出すことが難しいと分かっていたのに「やってみよう」と言ってくれたんだ。彼のことは今でも好きだよ。 
ルーの音楽は売れ始めましたか? 
言ってもいいかい? 次に作ったアルバムは『Lou Rawls Live』だったんだけど、150万枚の大ヒットだ。ゴールド・レコードは取ったことがあったけどあれはプラチナになってもおかしくなかったね。 
その頃には、ゴールド・ディスクも取っていたし、キャピトルの社長の信用も得ていたんですね。当時キャノンとも仕事をしていたのですか? 
そうだよ。一緒にいくつかアルバムを作ったけど、最初はやっぱり仕事って感じだった。その後に仲良くなった。ある時彼が住んでいるニューヨークのスタジオでレコーディングをしたんだけど。そのセッションの合間にキャノンがトイレに私を連れて行って、ガラスの小瓶を取り出した。そして握りこぶしを作り、手の隙間に何かの粉を落とした。そして「同じようにやってみろ」と言ってきたから私は「そういう事からは手を引いたから必要ない」と答えた。ヘロインだと思ったが、実はコカインだった。コカインは未だに1度も見たことがなかった。私は人間が口にするものはすべて口にしたつもりだったので、見たことがないものに出会うのは驚きだった。「言いたいことは分かるけど、これはヘロインじゃなくてコカインだ。何も言わずにやってみろ」と彼は言った。すぐに気に入ったよ。今までやったどの薬物よりもハイになったよ。だけど乱用はしなかったし、鼻から吸い込んだだけだ。まあ1965年から1981年の間にたいそうなお金をそれにつぎ込んだのは認めるしかないけどね。絶対やめたいとは思わなかったけど、やめざるを得ないことが起きたんだ。心拍数が一気に226まで上がったんだ。 
幸運にもやめられたんですか? 
実際簡単にやめられたよ。医者を呼んだら「60mgのバリウムを飲ませて、その後コニャックをグラス1杯飲ませるんだ」と言ったから、「コニャックを1杯?こんなに心拍数が高いのに?」と答えたら、「知った口を叩かないで、さっさと飲ませろ。コニャックはバリウムの働きを助けるんだ」と。実際にうまくいった。それからは1度もやってないよ。 
よかったですね。 
いやよくないよ(笑)。大好きだったし、1度もそれが原因でトラブルになったことはなかったからね。曲を書くとき、眠くならない。フロイトもそう言ってる。50年ぐらいずっとコカインをやってる70歳ぐらいのミュージシャンなら何人も言えるよ。彼らは今でもやってるからね。私に起こったことはたまたまだったんだ。 
すごいですね。さて、キャノンボールとのセッションに話を戻しましょう。 
セッションが終わると、彼は私とオリヴァー・ネルソンをすぐそばのファンキーなバーに連れて行ってくれた。キャノンがコニャックを頼むと、バーテンダーは馬鹿じゃないのかという目で見てきた。彼はいろんな種類のブランデーを頼み、私たちはそれを飲み始めた。すると彼は電話ボックスに行き、妻のオルガに電話した。この人が私が今まで見たことのないぐらい奇麗な人なんだ。そして夕食に招待してくれた。オリヴァーと私の分まで夕食を用意してくれるなんて、何と親切な人なんだろうと思ったよ。夕食を食べ終わって、リラックスしながらお酒を飲んでいると、キャノンがレコードのコレクションを持ってきた。全部R&Bだったよ。全部知っているものだったけど、「リアルなものじゃないね」と言ってやった。もちろん彼は嫌な顔をしたよ。彼が持ってたレコードは全部知っていた。アーニー・ケードー、ボビー・“ブルー”・ブランドとか。 
あなたはエイモス・ミルバーンやロウエル・フルサムを聴けと言っているそうですね。 
そうそう。彼はそうとうびっくりしてたよ。だけどそのおかげでもっと深くなれた。 
その2人のR&Bに対する情熱が逆にジャズを作る時に役立ったのですね。例えば、「Mercy, Mercy, Mercy,」などはすべてのジャズの中で2番目のセールスですよね。 
あのレコードにはみんな驚いただろうね。まあなんと言っても1番驚いたのは私とキャノンだけどね(笑)。売れ線路線のレコードを作ったことはないんだけど、ジョー・ザヴィヌルがいい仕事をするんだ。「Mercy, Mercy, Mercy,」は彼が書いた。 
とてもファンキーな曲ですよね。あなたはいろんなクラブでソウルやR&Bが鳴り響くのを聴いてきたと思いますが、あの曲はバック・ビートがかっこいいと思います。あなたがそれに関係していると思うのですが。 
もちろん。いつもみんなでやってたからね。キャノンと私と。もしなにか気に入らない個所があると、それだと出せないときっぱり言ってやったよ。 
あなたもファンキーな人ですよね。普通の人が知らないようなレアなR&Bなどを聴いていますし、ジャズにも精通している。しかもあなたはR&Bの影響でポピュラー・リズムに変化が起きていたのも気づいていましたよね。アダレイのジャズにファンクを盛り込んだだけでなく、ソウル・シンガーのロウルズ、ポップスのデイヴィッド・マッカラムにも同じことをしていましたね。 
マッカラムとやったものはすべてトップテンかゴールドになったよ。だけどみんながそれを音楽のために買っていたとは思わないな。その中に入っているサイン入りの写真を欲しがってたんだろう。女の子達は彼に目がなかったからね。彼は自然体のままでもかっこよかった。彼は私がキャピトルに連れてきたんだけど、今考えるとおもしろいよ。どこかで彼の記事を読んだら、週にもらうファン・レターの数がクラーク・ガブルの数を上回ったということだったから、こいつは凄いに違いないと思ったんだ。彼には、私が「The Man

From U.N.C.L.E. theme」を手掛ける前に会ったことがあった。デイヴィッドが主役だったんだ。確認しておくけど、デイヴィッドの家族は音楽一家だった。デイヴィッドの父はコンサートマスターで、デイヴィッド自身も幼少期から15歳ぐらいまでオーボエをやっていたんだよ。話を戻して、あるA&Rの会議で、私がマッカラムをキャピトルに呼びたいと言ったんだ。ヴォイルはどういったことをやりたいのか聞いてきた。私は彼が、歌が上手くないことを知っているけど、当時流行っていた、凝ったアレンジに合わせてスポークン・ワードをするスタイルをとってほしくないとだけ言った。まあ何かできるということだけは確信があったんだけど、指揮をとっていたヴォイルは「それじゃだめだよ」と言って次の議題に移ってしまった。その時、私たちのことを見ていたリヴィングトンが小声で「マッカラムと契約が取れるなら、とっておいで」と言ってくれた。これで決定だった。ヴォイルは赤面していたが、社長がそう言ったんだから文句は言えなかった。  

彼のやったものはすべてゴールドになりましたね。当時あなたはロウルズとキャノンボールともいい仕事をしていました。 
馬鹿にしてるのかい? 私はゴールデン・ボーイだよ。キャピトル・レコードのオスカー・デ・ラ・ホーヤさ。やりたいことはなんでもできたよ。年に700万ドルも稼いでいたからね。 
えっとそれが1966年から67年あたりですよね。デイヴィッド・マッカラムの『Music: A Bit More of Me』の時ですね。そのアルバムには私の好きな「The Edge」という曲が入っています。 
ちょっと言っていいかい。あの曲をよーく聴いてごらん。特にコードに注意して。私がやるものすべてに共通しているメロディーがあるんだ。いろんなことをやったけど、どうしても根底にあのメロディーを入れてしまうんだよ。 
どうやってあんなにプログレッシヴな音楽をポップ調に仕立て上げたんですか? あのファンキーなリズム。あれはマッカラムがやったわけではないですよね?
まあ私たちはマッカラムをどうにでも仕立て上げることができたからね。彼のものは売れるということだけは間違いなかったからね。簡単に言うと、私たちはインストゥルメンタル・ヴァージョンのヒット曲を作ってた感じかな。だけど気は使わないといけなかった。ビルボード・チャートの80位にいるこの曲が果たしてトップ・テンに食い込めるのかってね。賭けみたいなもんだったけど、なんとかうまくいったよ。あのアルバムではマッカラムが2曲、H.B.が1曲、私が2曲書いた。よく売れたからみんなご機嫌だったよ。 
「The Edge」は何について歌っているんですか? 
発展途上国だよ。世界には今にも壊れそうな家に住んでる人達もいるんだ。コカコーラを運ぶコンテナに住んでる人だってね。サン・ユアンで見た。悲惨だよ。私はL.A.のサウス・セントラルが1番最悪だって思ってたけど、泥の道とコカコーラの家、それが「The Edge」だ。世界の端っこ。自殺してもおかしくないと思う。だけどあそこに住んでる人は心が強いからそんなことはしない。 
とても強い曲ですね。ギターとブラスがぶつかり合うところから始まり、力強いバック・ビートにささやくようなフルートの音色。みんなあの曲を聴くと西部の無法地帯が思い浮かぶといってますよ。  
西部の無法地帯? ビル・ヒコックとは何も関係ないよ。頼むよ。同じ人間の話だよ。ほんとにあんな貧困は見たことがなかった。 
あれはキャピタルでのあなたの数少ないプロダクション作品の1つですね。そしてあなたが自分のベンチャーを抱えて数年後にいる場所を考えると辻褄が合います。マッカラムにはどのようにしてコンセプトを作っていったか話しましたか? 
いいや。彼は気にもしてなかったよ。 
マッカラムの音楽的可能性を考えると、あなたとセッションした時にどれだけのことをやれていたのか気になるところですが。 
ははは。デイヴィッドは素晴らしいやつだったよ。だけどセッションはちょっと変わっていたね。彼がやることはあまりなくて、レコードを録る時、彼が立ち上がるとカメラマンが一斉にシャッターを切り始めるんだ。それで終わりさ。 
ただの見かけだけですか?
もちろん。悪いことじゃないだろう? 
ふー。これで半分。まだまだ表面しか見えていません。ダイナミックなセッショナーのキャロル・ケイ、アール・パーマー、エレクトリック・プルーンズ。また突破口となった「Song of Innocence」と「Songs of Experience」に、ミステリアスな「Earth Rot」。デッカ・レコードとファンタシー・レコードでのスタッフ時代。1960年代後半に作った、リズム基盤の新しいアルバム。後半のインタヴューをお楽しみに。見逃すな!

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