Funk Archaeology No.1

July 21,2010 | Category :  News | Tag :  Egon, Funk Archaeology,

Wax Poetics Japan No.10から始まったNow Againのイーゴンによる新連載“Funk Archaeology”。

初回は翻訳が連載1ページに全て収録する事が出来なかったので、本サイト「online exclusive」にて全訳を公開する。
イーゴンの伝えたかった内容をこの記事から汲み取って頂きたい。  
Funk Archaeology 
(ファンク考古学)
リッキー・イリロンガとムシ・O・トゥニャの音楽から学ぶザンロックの誕生:1973年〜1976年


1970年代中盤、ザンビア共和国として知られるアフリカ南部の国は、苦境の時代を迎えていた。同国の初代大統領、ケネス・カウンダと同氏率いる統一民族独立党は、イギリスの植民地支配から既に脱していた。しかし新興共国は、いつの間にか一党独裁体制に陥っていた。カウンダ大統領は、国富の主な源となっている採掘作業を一部国営化。また、当時の南ローデシア(現在のジンバブエ)との政治的衝突に関与したことにより、主要な貿易パートナーだった同国との取引ができなくなった。ザンビアの西はアンゴラ、東はモザンビークだ。ポルトガルの植民地だった両国は、独立のための闘争を各自繰り広げていた。この通り、紛争が内陸国ザンビアの四方を囲っていたのである。
これが、「ザンロック」・シーンの生まれた環境だ。
同シーンは1970年代、ルサカやチンゴラといった都市で流行した。有望なミュージシャンにとっては希望の光に溢れていたものの(60年代には、ザンビアの国営ラジオ局、ザンビア・ブロードキャスティング・サービスが誕生)当時は動乱の時代だったため、ヨーロッパやイギリスの影響を受けた(独立当時、ザンビアには7万人以上のヨーロッパ人が住んでいた)ザンビアのミュージシャンが、ロックやファンクのハードかつダークな側面に惹きつけられたのも不思議ではない。クリッシー・ゼビー、ポール・ンゴジ・アンド・ザ・ンゴジ・ファミリー、ピース等、小規模なブログやブートレグを通じて広がった70年代のザンビア産ロック・ミュージックおよびファンク・ミュージックは数少ない。
しかし、これらの音楽から、ファズ・ギターが多用されていること、ジェイムズ・ブラウンのファンクやジミ・ヘンドリクスのロックに影響を受けた激しいリズムが主流であること、またバンドは主として、同国の公用語である英語で歌っていたこと(折に触れて、ニャンジャ語やベンバ語の曲をアルバムに加えていたが)が分かる。 
ザンビアのレコードがほとんど正式リイシューされていないのには、当然の理由がある。第一に、ザンビアのレコードは、アフリカの基準でも非常に希少なのだ。70年代中盤にザンビアの主力輸出品である銅が急落し、決して回復しなかったため、悲惨な貧困状況がさらに悪化し、音楽を贅沢品にしてしまった。ザンビアの都市の中でも比較的裕福な人々ですら、音楽に耽る余裕のある者は殆どいなかった。
第二の理由としては、90年代中盤、ヨーロッパ、日本、北アメリカの富裕なレコード狂で形成された「コレクター・コミュニティ」に登場したザンビアのレコードは、使い古したフリスビーよりも酷いコンディションだったことが挙げられる。「現地で」見つかったザンビアの平均的レコードは、現代のアンゴラで時々見つかる、戦火で痛んだレコードと同程度の品質である。国外に移住するザンビア人が、自身のレコード・コレクションを持ってくる(これが幸運なコレクターの手に渡る)のは、ごく稀な話だ。つまり、同シーンを復興させるための財力と情熱を持っていても、扱う素材が殆どなかったのである。 
しかし、ヨーロッパや北アメリカにいるこの種のコンパイラーの多くが、わざわざザンビアを訪れたわけではない。彼らはアフロビートの巨匠、フェラ・クティをきっかけに70年代のナイジェリア・シーンに魅せられ、さらなる調査をしようとラゴスまで旅したが、ザンビアに足を運ぼうとはしなかった。これはおそらく、70年代にザンビア一番の大物とされたレコーディング・アーティストですら、世界的規模でインパクトを与えてはいなかったためだろう。(読者の皆さんは、この記事を読む前から、ポール・ンゴジについて、または彼が80年代に作り出したザンビアのアフロビート、カリンドゥアについて知っていただろうか?)
2000年以前(その後は不定期に)は、大学から資金提供を受けた民俗音楽学者(ザンビアのポップ・カルチャーよりも民族音楽に興味を持っている)以外に、ヨーロッパや北アメリカからザンロック・シーンの創始者を探そうと、同国を訪れる者など殆どいなかった。また、彼らがザンビアを訪れたところで、目印など殆ど存在しなかった。新たな麻薬を求めていた世界のサイケデリック・ロック中毒者にとって、ザンビアの音楽が次なるフロンティアとなった90年代後半、同国に残ったザンロックのゴッドファーザーで生き延びていたのは、僅か少数にすぎなかった。エイズによって多くの人々が命を落とし、インフレが制御不可能となったザンビア。金銭的に余裕のあった同国のロッカーは、亡命するかのように国外へと逃げた。 
こうして海外移住したロッカーの1人が、大御所リッキー・イリロンガである。彼は一流のギタリスト、シンガー、ソングライター、プロデューサー、アレンジャーで、最初のザンロック・バンドのひとつに数えられるムシ・O・トゥニャを始めた人物だ。同バンドの『Wings Of Africa』は、ロック、ソウル、ファンク、アフロビート、コンゴのリズム、さらにはザンビアの民族音楽を融合し、ザンビアにおいて先駆的なアルバムとなった。
1980年、イリロンガはオランダに腰を落ち着ける。そして2007年、彼はマイスペースにプロフィールを掲載。そこにはEメール・アドレスも含まれていた。私はイリロンガの画期的なアルバム『Zambia』を聴いていた。このアルバムを聴くことができたのは、耳が早く気前の良いレコード・コレクターのお蔭である。彼は1990年代に、『Zambia』、『Same Name Music』、『Sunshine Love』、『Sweto』というイリロンガの4枚のアルバムを入手していた。私は『Zambia』1枚を聴いただけで、その音楽の虜になった。私はイリロンガ宛てのEメールを一気に書き上げると、彼が70年代に作った楽曲のコンピレーションをリイシューする気はないかと問い合わせた。彼は私の提案に同意し、私達は計画を立てた。偉大ながらも見過ごされてきたザンロック・シーン。イリロンガが基礎固めに関わった同シーンで活躍した他のバンドについて、私は彼に質問を始めた。
 
リッキー・イリロンガは親切な男だ。下手な保護主義や、狭量な嫉妬心を持ち合わせていない。彼は、アマナズやWITCHの音楽を愛していた。イリロンガによれば、若かりし頃の彼らは皆、ヨーロッパ製のアルバムで聴いたロックンロールをザンビア的に解釈した音楽を作り、発展させようという欲望に駆られて楽曲を作っていたという。彼は、各バンドで存命中のメンバーの居場所も知っていた。そして、今度ルサカへ里帰りする時には、彼らを見つけ出してみせると約束してくれた。
 
その言葉通り、イリロンガは2009年10月、マラリアの発作と戦いながらも挫けることなく、WITCHのヴォーカリストだったエマニュアル・ジャガリ・チャンダと連絡を取ったというニュースをEメールしてくれた。チャンダは、ザンビアの北部に位置する人里離れた村で、採掘作業の現場監督となっており、WTICHが作ったザンロックの名曲コンピレーションCDRを売り歩く以外は、音楽から身を引いていた。イリロンガが私について入念に調べ、私の意図を保証した後、チャンダは自身のバンドについて、4人のバンドメイトの死去にまつわる悲しい物語について、私に詳細を語ってくれた。さらに彼は、シャドックスがWTICHのファースト・アルバム『Introduction』とサード・アルバム『Lazy Bones』のレコードをリイシューしたことにより、自分の音楽に対する興味が再燃していることに最も驚いている、と話していた。彼はシャドックスのリイシューを正当なものとして認めると、CDのプレスを許可。それから間もなくして、イリロンガはアマナズのキース・カブウェを私に紹介してくれた。チャンダの時と同様のプロセスが新たに始まり、同様の結果がもたらされた。
 
我々がいつ自分のコンピレーションに着手するつもりなのか、イリロンガは一度として尋ねはしなかった。ひとつイリロンガについて学んだことがあるとすれば、彼はコンピレーションへと繋がるプロセスの中、然るべきに時は起こると悟っていた、ということだ。私は待って良かったと思っている。というのも、彼は最初の旅で、ムシ・O・ドゥニャがパテ・イースト・アフリカからリリースした初期の7インチ・シングルを数枚と、ムシ・O・トゥニャとイリアンガ自身の影響を与えた音楽を持ち帰ることに成功した。私はポール・ンゴジのファースト・アルバム『Day of Judgment』の裏面に載っていた短いライナーノートを読み、ムシ・O・トゥニャの有名なシングル「Tsegulani」でンゴジがイリロンガに代わっていたことを初めて知った。また、イリロンガが持ち帰って来たほぼ全てのレコードでエドワード・クザヤウォの名前を見つけて初めて、今は亡きザンロックの大物プロデューサーの重要性を知った。
 


イリロンガの物語は、サクセス・ストーリーだ。彼はデンマークで幸せに暮らしている。家族を養いながら、いまだに音楽を演奏・レコーディングし、少なくとも年に1回は母国へ旅する財力も持っている。そして母国では、いまだにスタートして認知されている。しかしまた、素晴らしい物語には悲しみがつきものだ:彼が22歳で親友と始めたバンド、ムシ・O・トゥニャの終焉、ザンロック・シーンの衰退、彼の同輩や友達、兄弟の命を奪ったエイズの大流行と、イリロンガの物語にも悲話が交えられている。彼の初期のレコーディングを聴きながら、この原稿を書いている私は、今こそイリロンガの第3幕のピークに相応しい時期だと確信している。これまでザンビア国外では聴かれたことのない彼の音楽が、皆の耳に入るべき時が来ているのだ。彼の音楽はファンクからロック、ブルース、ソウル、ルンバ、アフロビートといった、アフリカン・ディアスポラの音楽ファンを魅了するために必要とされる要素を含んでいる、と少なくとも私は思っている。10年前だったら、イリロンガが作ったような冒険的で個性に富んだ音楽のリイシューは、時代の先を行きすぎる感があっただろう。
しかし、前述のジャンルの境界線が、ザンビアというアフリカの国にまで広がった今、イリロンガの音楽は新鮮かつ斬新に聞こえる。こんなにも素晴らしい音楽が、これまでなぜ(再)発見されなかったのだろう。私には殆ど理解できない。イリロンガの音楽は、ザンビアで進歩的かつ世界的なミュージシャンシップが誕生するにあたり、極めて重要な役割を果たした。また、彼の音楽は、その他のザンビアの先駆的ミュージシャンに光を当てるきっかけとなるはずである。 
-Eothen Alapatt, Los Angeles, 2010. 
イーセン・アラパット、2010年ロサンゼルスにて。
(イーゴン) 

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