Smunk: Pee Wee Ellis

April 24,2009 | Category :  News | Tag :  

By: Stefan Trischler © Beatdown.org // 11.28.05

 “スマンク”なサウンドを鳴らすピー・ウィー・エリス
「Cold Sweat (注1)は、僕自身のマイルス・デイヴィスとの経験が基になっているんだ」――Pee Wee Ellis

Wax Poetics:人生で最初の音楽の記憶って何でしょう。つまり、最初の接点は? 

Pee Wee Ellis:やれやれ、そんなの覚えていないよ(笑)。ええっと、僕はフロリダ州の西にあるブラデントンで生まれたんだ。ブルースは身近なものだったよ…いや、実際は違うな。教会では、だね。僕は教会に足しげく通ったんだ。そこには立派なピアノ奏者がいて、ゴスペルを弾いていたのを覚えてる。そしてそれが、僕と音楽との最初の接点だったんだ。 

ご自身で音楽を始めたのはいつ頃ですか? 

おそらく10歳か11歳の頃だと思うね。

その時にはすでにサックスを? 

いや、違う。最初はおもちゃの楽器で始めたんだ。小さなプラスチック製の笛やコルネット、オカリナといったものさ。 

とはいえ、いずれも息を吹き込む必要のある楽器ばかりですね。 

確かに(笑)! 学校ではクラリネットから始めたんだ。スタートとしてはまずまずだった。それからサックス(に移ったん)だ。その間にも、トランペットやトロンボーンなど、ほかの楽器に手を出したりもしていたんだよ。学校の楽団ではバリトン・ホルンを担当していたし、ほかにもアップライト・ベースをいじったりもしていたね。 

その当時に一番関わっていたバンドは、どういった類のものですか。ゴスペル、それともブルース? 

ブルースとR&Bだね。家や学校の近所にあるような、地元のバンドがほとんどだった。僕は1949年にテキサスに移ったんだけど、そのときからだね。ちゃんと演奏を始めたのは。

ジェームス・ブラウンとは、どうやって出会ったのですか? 

1957年に、僕はソニー・ロリンズ(注2)と一緒にやりはじめた。ジェームス・ブラウンに会った時、僕は(フロリダ州)マイアミにいたんだけど、そこでソニーと学んだことを吸収して、実践しようとしていたんだ。そんなとき、彼が僕の演奏していた小さなクラブにふらりと現れて、舞台に立ったんだ。それについて当時は何も思わなかったけど、でも5年後に、彼からその話をふたたび聞いたんだよ。 

そして1967年に、あなたは彼のバンドに加入したと?

あれは1965年だったんじゃないかな。 

実は今日、ある本で調べてきたところなんです。そこには1967年と記してありました。それが実のところ、ジェームス・ブラウンの自叙伝『The Godfather of Soul(邦題:俺がJBだ!)(注3)』なわけですけど。 

彼は忘れちまってるのさ、ハハハ。いいや、僕は確かに1965年、ワシントンDCでジェームス(のバンド)に加入したんだ。よく覚えているよ。1966年になる頃には、僕はバンドのリーダーになっていたしね。1969年までの4年間だよ。

バンドのリーダーとしての、特別な仕事ってどういうものでした?

アレンジをしたり、ジェームスと一緒に詩を書いたり、バンドの面倒を見たり、それに皆がちゃんと弾いているか確認しなくちゃならなかった。さもないと、罰金が科されるからね。

まさにそうですね。ジェームス・ブラウンは、バンドに対してかなり厳しいことで知られていますが。 

本当に厳しかったよ!

ではあなたは、メンバーとジェームスの間で板挟みになっていたと?

そうだね。僕は仲介者というか、橋渡し役だった(笑)。かなりうまく駆け引きをしなくちゃならなかったんだ。彼のことは“ミスター・ブラウン”って呼ばなきゃならなくてさ。彼は物事の進め方に断固とした考えを持っていたから、僕がそれを、彼の音楽に対するアイデアと併せて、バンドのメンバーにうまく伝えなければいけなかったんだ。 

罰金だったり、かなり厳格であったり、彼のそういった考え方にあなたは賛同していたのですか? 

いや、していなかった。でも僕は、そう言わざるを得なかったんだ。でも、わかると思うけど、すべてが悪かったってわけじゃないんだよね。そうすることで、常に細部まで注意を払うことができたしさ。 

罰金を通して、あなたはさらに鍛えられました? 

そうだね。実際のところ、そのおかげでうまくいったよ。

(JBと)一緒に書いたすべての音楽に対して、結果的に、ふさわしい称賛が自分にも与えられたと感じていますか? 

いや。でも、ミスター・ブラウンのために言うと、僕は今でも十分通用する称賛を得たと思っているよ。 

私にとって、JBがもたらしたファンクの2つの特徴を挙げるとすれば、まず1つ目は“1つの”ビートを強調すること。その後で、リズミカルに突き刺すようなホーンが続くと。誰がそれを“発明”したのか、教えていただけますか? 

たぶん僕だろうな。ほかのホーン奏者たちも一緒にね。僕がジェームス・ブラウン(のバンド)に加わる前、彼はその方向性で始めていたんだ。僕はそれにアレンジをして、さらにやりやすいようにしただけだよ。僕は自分がジャズから受けた影響を、ジェームス・ブラウンに持ち込んだんだ。こうして僕らが一緒にやることで実現したというわけ。例えば「Cold Sweat」は、僕自身のマイルス・デイヴィスとの経験から生まれたものだしね。 

過去にマイルス・デイヴィスと一緒に演奏した経験は?

少しだけあるよ。ニューヨークでね。ジェームスのバンドに参加する前だね。僕はティーンエイジャーのころから、マイルス・デイヴィスを聴いていたんだ。その影響たるや…マイルスの曲「So What」をよーく聴いてみると、「Cold Sweat」が聴こえてくるはずさ。 

なるほど。ジェームス・ブラウンとのライブ経験の中で、最も素晴らしかったステージは? 

どれも最高だったよ。僕らはどこでも満員の客を集めたし、1年のうち50週間、つまりほぼ毎週、世界中でライブをこなしていたんだ。ジョージア州アトランタでのライブが印象に残っているかな。僕らはほかの多くのアーティストたちと一緒に、野球場でライブをやったんだ。(野球場の)地下通路を通って更衣室に入っていったら、スティーヴィー・ワンダーと鉢合わせしたりとか。そんなこともあったね。それからあとは、アポロ劇場で10日間のライブを終えたときのことも印象に残ってる。満員の観客を前に、日に3回のショーをこなしたんだ。千秋楽を終えて、その翌朝には、週末をアフリカで過ごすために旅立ったってわけ(笑)。向かったのは西アフリカの(コートジボワールの首都)アビジャンさ。なかなかの体験だったよ。僕らはそこで、国の行事みたいなのをやったんだ。それが何だったのか、いまだによくわからないんだけれどね。でも、アフリカで帰りの飛行機に乗って、パリに行って1泊して、週明けにはフィラデルフィアで演奏するために戻ったことは覚えているよ。

それって、かなりエネルギーを使ったのでは。

ああ、本当にクレイジーだった。でもさ、そのときはいかにそれが狂ってることなのか、自分でも気づいていたかどうかは覚えてない。というのも、僕らはそんなことばかりやっていたからさ。 

おそらく、バンド内に特別なエネルギーがあったのでしょう。 

そう、まさにそうだね。きっとアドレナリンがすべて正しい場所に行き渡っていたんだね(笑)。 

信じられないくらい、最高の瞬間だったと。

そうだね。 

その当時はまだ、南部で公演する時に、黒人と白人で席が分けられていましたか? 

南部のどこかに行った時に、観客が(黒人と白人に)分かれていたのを覚えている。白人はこっちで、黒人はそっちっていう。かなりショックだったね。最初は「こんなことはしたくない!」って思ったさ。でも、僕に何ができただろう? まあ、その後、観客は一体となったけどね。 

1969年に、ジェームス・ブラウンと決別することになった理由は何だったのですか? 

そうだね、基本的にはもう十分って感じだった。僕は別のことがやりたかったんだよ。ジェームス・ブラウンと一緒にやるのなら、それは一生をかけてやることなんだよ。決して片手間にできるものじゃなく、全身全霊をかけてやるものなんだ。僕はほかにやりたいことがあったから、そうすることが自由になる唯一の方法だったってわけ。

バンドを離脱後、あなたは再び、ジャズの方向へとさらに入り込んでいったのですか? そうだね。ジェームス・ブラウンのバンドに加入した主な目的も、どのみちジャズをやることだったから。だから離脱後は、まっすぐにジャズの道を進んだよ。
JBとの経験は、その後あなたがジャズのレコーディングをする際に、ファンクな要素をもたらしましたか? 

そうだね。僕はJBの音楽にジャズをもたらした。そしてJBのおかげで、僕はジャズにファンクを取り戻せた。それは何ていうかまあ、素敵な結婚ってところかな。 

JBのサウンドが、ヒップホップ音楽のサンプリングネタとして使われているのを初めて耳にした時、あなたはどう感じましたか? 

「奴らは一体、何てことをしてるんだ!?」って感じだったね。というのも、世の中の音楽にまつわる法律なんてものは、存在しなかったからさ。まあ、実際にはあったわけだけど。でも、サンプリングのために誰かに金を払うなんて、誰もしていなかったしね。でもそれ以降は、話がまとまって、僕らもある程度は管理できるようになったんだ。今は満足してるよ。まあ、僕個人の作品の方が(ジェームス・ブラウンのものよりも)僕にとっては有益なわけだけど。僕の音楽をサンプリングしているラップグループはこれまでに少なくとも4組はいるね。なかなかいい感じだよ。すごくいいと思う。創作品としても素晴らしいし、人々がまた違った視点でクリエイティブになれるだろ。これって悪くないよね。彼らにとっても、その方がより簡単だしね。大変な作業はすでに済んでるわけだからさ。といっても、彼らのやってることもハードな作業だよね。僕にとってもさ。やってみれば、その大変さに気付くだろうよ。

あなたは現在、バードランド(注4)で演奏するために、(オーストリアの)ウィーンに滞在していますね。音楽はよりファンキーに、またはよりジャズっぽくなるのでしょうか?

オオー(笑)! ジャズとファンク。ファンクとジャズ。ファンキーなジャズと、ジャジーなファンク。でも僕は今、“スムース・ファンク(smooth funk)”っていう、新たな方向へと向かっているんだ。僕はそれを“スマンク(smunk)”って呼んでる。2005年のうちに、君たちもこの言葉をきっと耳にするだろうね。(ドイツの)ブレーメンで作ったばかりのこのアルバムで、僕は自分のお気に入りの曲のカバーを何曲かやっているんだ。例えばスティーヴィー・ワンダーの「You Haven’t Done Nothin’」や「Boogie on Reggae Woman」、スティングの「All Four Seasons」やマーヴィン・ゲイの「Heard It Through the Grapevine」。オリジナルの曲も2、3曲あるよ。これらの曲では、これまでとはちょっと違った感じを取り入れているんだ。より軽やかな感触とでもいうのかな。それこそが“スマンク”のサウンド、つまりスムース・ファンクなんだよ。

 

■注釈 
注1:Cold Sweat ジェームス・ブラウンの曲で、ピー・ウィーが書いた曲。 
注2:Sony Rollins ソニー・ロリンズ
アメリカのジャズ・サックス奏者。 
注3:JBの自叙伝 俺がJBだ! The Godfather of Soul
日本語訳 
注4:Birdland
オーストリア・ウィーンにあるジャズクラブ。ニューヨークにも同名の有名ジャズクラブが存在している。 

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